赤松政則関連年表
1458年
長禄の変 赤松遺臣が神璽を奪い返し、赤松政則が加賀半国の大名となる
1462年
政則は浦上則宗と共に京都の土一揆を鎮圧する。といっても政則はまだ8歳、実質的に浦上則宗の功績ではあります。
1465年
この功績を盾に播磨国内に軍兵を入れたのか、当時の播磨の正式な支配者である山名氏は播磨国内での赤松旧臣の牢人狩りを行っている。政則が元服する
1467年
応仁の乱勃発。政則はここまで庇護してくれた東軍の細川方に着き、赤松庶流の赤松政秀(同名の孫がいる。黒田官兵衛と青山の合戦で戦った赤松政秀)が兵を率いて播磨国内に乱入する。播磨国内に散らばっていた赤松旧臣がこれに呼応し、播磨国を実効支配し、続いて備前・美作も山名氏より奪回。
1468年
赤松政則は侍所別当となり、赤松家の威勢は嘉吉の乱以前に戻る。といっても政則はまだ若輩のため浦上則宗が仕切っていたと思われる。
1472年
応仁の乱が収束の向かう中、山名と敵対している浦上則宗と赤松政秀が山名との和解を拒否し天王山で西軍と戦い、応仁の乱終結は翌年に持ち越される。翌年、両軍の総大将が死去し、一応の終結となる。義政が隠居。
この後、10年ほどは幕府要職にもつき、一応の安定を得ることになる。
1483年
備前の国人、松田氏が山陰の山名氏と共謀して赤松に叛旗を翻す。政則は実権を握っていたと思われる浦上則宗の作戦を勝手に破棄し直接、山名の本拠に攻め込むが大敗。この負け戦(真弓峠の戦い)のため備前、美作の実効支配も失うことになり、怒った浦上則宗は政則の廃嫡に動き出す。このとき廃嫡に同調したのが小寺政職、そう、官兵衛が仕えることとなる小寺氏だった。
このとき、赤松側の備前における政庁はなんと、備前福岡城!、黒田官兵衛の祖父もここにいたに違いない。ということは、小寺と黒田の関係というのは既にこの頃から成立していたのではなかろうか。
1484年
政則は廃嫡の危機を幕府や前将軍の義政の助力を得て回避し、浦上則宗、小寺氏とも和解することに成功し、再び、播備作統一を目指すこととなる
1485年
備前の山名・松田への攻撃再開。山名側も播磨へと進出したりして一進一退の状況が続く。
1487年
ついに、山名の影響力を排除することに成功する。英賀の戦い、書写坂本城の合戦で勝利した政則は名実共に播備作三国太守へと返り咲く。
この時、「鬼吉川」こと安芸大朝の国人領主の吉川経基が赤松側として参陣し、大活躍している。
吉川氏はと播磨の国の関係としては、かつて播磨国福井荘で吉川氏が地頭を務めたという因縁もある。
1489年
政則は広峰社に太刀を奉納し、赤松義村を養子に迎える。義村は京都に分流していた赤松円心の子孫の家系であり、七条に邸宅があったため七条家という家系の出身である。七条氏の最初は赤松光範とされ、円心の孫であり、円心の長男たる範資の子。義村はその家系から赤松家惣領の養子となり、後に政則の跡を継ぐことになる。彼の最後は重臣の浦上による暗殺である。
義村の子が今姫路で行われている三ッ山大祭を始めた人物、赤松晴政である。
1491年
政則は将軍、義材(稙)に従い、近江に進駐し六角氏を追放する。六角氏といえば黒田官兵衛の祖先の出自にも関わる名門であり、戦国大名としても有名。
1493年
実子が誕生するも、家督相続はかなわず、実子は龍野赤松へ預けられることとなる。
1496年
従三位に叙任。その年に死去する。彼の死後、播磨には再び戦乱が巻き起こることとなり、赤松家中は分裂への道を進むことになる。
政則と衝突しつつも彼を支え続けた浦上則宗は実子を全て戦乱で失い、浦上氏も養子によって存続することになる。これが播備作三国内での下克上の最初となる。義村の死というより浦上氏の独立により、備前、美作での赤松の影響力は減少する。