古代出雲王国の謎

古代出雲王国の謎を中心とした歴史がテーマのブログです。

黒田官兵衛、青山の合戦

官兵衛にとっての「桶狭間の合戦」に値する「青山の合戦」が始まるのであった。



抗争の名義的中心は龍野赤松vs赤松本家。

抗争の実態的中心は龍野赤松vs備前浦上。

龍野赤松側は足利義昭織田信長毛利元就・三木の別所。

赤松本家側は備前浦上、御着小寺。

圧倒的な差である。小さな包囲網ごと包囲してしまった状態なのだ。

息の根を止められる寸前だった龍野赤松氏は、大きく息を吹き返す。


逆に息の根を止められそうになったのが備前浦上氏と御着小寺氏である。

本国備前は毛利の調略の的となり、重臣宇喜多直家が叛旗を翻した。

宇喜多は毛利のみならず織田側とも連絡をとっており、どちらかというとこれまで争ってきた毛利よりも織田方に近づこうとして叛旗を翻したらしい。

小寺氏も正に「風前のともし火」となってしまったのだ。東からは織田軍の池田勝正と三木の別所氏が押し寄せる。西からは一気に優位にたった龍野の赤松政秀が小寺攻めを開始する。

若き日の官兵衛、最大のピンチの開幕である。


世に言う、、、いやまだあまり有名な話ではないが、これから有名になるであろう「青山の合戦」が行われることとなるのだ。

小寺家がこの地で戦争を行うのは三度という説がある。

そのうちの二回が1569年の5月と8月であり、8月の戦いが本戦。また月次の違うという説もあり、もう一回は1575年であるが、1569年とは勢力図が違っており、敵味方が変わっていたりしてややこしい。

室町殿や公家が関わる戦いの場合は比較的日時がはっきりしているが、中小勢力同士の争いだと誤伝もあり、混乱している場合も多く、各氏族の系譜に書き込まれた戦死の日などを合戦日に比定したりすることもある。

官兵衛にとっての初采配であり、大軍を少数で打ち破った、官兵衛にとっての「桶狭間の合戦」のようなものである。この合戦の後に官兵衛の名は播州にとどろくこととなる。


この合戦は龍野赤松家対姫路小寺(黒田)家の戦いではあるが、名目的には龍野赤松と赤松本家の争いであり、同時に政治的にみれば室町政権(足利・織田・毛利・龍野赤松)と反体制側(赤松本家・備前浦上・姫路小寺)の戦いであり、政治的には戦う前から勝敗が決していたといっても過言ではない戦いである。


しかも政治的前哨戦の中で、赤松本家は早々に全力を傾注することを避けざる得ない状況にあり、自らの味方として働くことになった小寺氏を表面的には見捨てる状態で始まっている。

小寺家にとってはまさに孤軍奮闘状態が求められる政治状況の中で始まったのだ。

まず、外交戦として、足利と織田は、龍野赤松からの人質であり、後に織田信長の養女となり、足利義昭の愛妾の一人となり、更には関白の二条家へと嫁ぐこととなる「サゴノ方」の返還を赤松本家と小寺家に命じる。従わねば滅ぼすぞということである。

赤松本家はこれを受け入れるしか方法はなく、サゴノ方を返還し、謀反など行うつもりはないと、申し開きを行うこととなる。

そして毛利からの浦上氏への攻撃要請があり、これによって、室町殿つまり織田の軍事活動の表向きの標的は赤松本家から備前浦上氏にシフトする。

織田氏にとっては播磨に公式に軍事介入できる名分を得るなら口実は何でもよかったのだ。

織田氏は播磨そのものより、室町殿の建て直しのために生野銀山の支配を目指す必要があったのだ。つまり播磨全土を手に入れるというより、播磨に軍勢を投入することによって生野の銀を手に入れるのが経済的なというか、この時点での本当の目的である。

本当に播磨を取って浦上氏を滅ぼしてしまうと、毛利と国境を接することとなり、これも厄介な話になる。織田軍の今回の播磨遠征の目的は銀なのである。

まず最初に動いたのは織田軍、別所を先導に播磨に展開しあっというまに播磨の諸城を攻め取る。

小寺氏の本城となっている御着城近くの諸城を取り囲み、小寺と赤松本家に降伏を呼びかける。

赤松本家は浦上討伐の名目のための軍をしたて、浦上へと向かうがあくまでもポーズである。浦上と本気で戦うつもりは毛頭ない。それは浦上も同じで一旦、龍野攻略の手を止める。小寺氏としても赤松本家に従ってのことであるので、織田軍と直接的に戦う理由は少ない。

この時点で織田軍としては初期目標を達成つまり浦上以外の播磨勢を表面的に旗下にとりいれたとになり、龍野赤松のピンチを救ったことになる。

そしてここから、織田軍は生野銀山へと兵を移動させることとなり、生野銀山を奪い取ることに成功する。

赤松本家は浦上攻撃の名目として播磨国内の兵を集め、置塩城に篭り事態を眺めるという態度をとる。御着の小寺本家もこれに追随して赤松本隊とともに置塩へ兵を集め待機作戦を取る。

こんな中で、龍野赤松がついに中播磨に向けて軍を動かす。

赤松本家が龍野攻撃をできなくなったのを知ってのことであろうと思われる。無人の如く突き進む予定だった赤松政秀に待ったをかけたのが、姫路城を小寺からあずっかていた官兵衛であった。

官兵衛は龍野の赤松政秀が軍を発したのを知ると、姫路での篭城を早々とあきらめ、姫路の西一里の青山へと伏兵を潜ませ奇襲をかける。

この奇襲に赤松勢は混乱し、慌てたのか、被害が拡大する前に撤退することとなる。龍野勢はこの時に被害を受けている。

浦上勢がまだ撤退していたわけではないので、本拠の龍野を守るという意味合いもあったのだろう。龍野周辺の赤松系の国人たちも、わずかな兵しかもたぬ官兵衛に敗れた龍野赤松政秀の采配の不味さに協力的でなくなったのかもしれない。

この赤松政秀の撤退は織田軍の目算を狂わせることとなる。

生野銀山への路として播磨は欠かせない織田軍だが、この官兵衛の大勝利によって播磨の治安、抑止力が崩れはじめた。

四国を本拠としていた三好勢が、これを知って播磨への侵入をはじめ、再び混乱を始める播磨の国。

秋、再び、織田軍は播磨への侵攻を本格化させる。

備前では、浦上氏の下で辣腕を振るっていた宇喜多直家が突如として織田方へと寝返り、浦上氏の党首浦上宗景の動きも食い止めることとなった。

備前浦上の撤退をうけて再び龍野の赤松政秀が兵を動かす。

合戦の詳細については下記ページが現在のネットの中ではもっとも詳しく紹介してあるので、参照いただきたい。

http://www.geocities.jp/kazzuki2001/aoyama.html

浦上が撤退しているので、前回の青山合戦よりも大軍を率いての進発だと思われる。

伝説では龍野方3000、官兵衛は300.。数字には誇張はあるだろうが数倍以上の兵力差で、二度目の激突が行われる。

場所は同じく青山。

官兵衛は、青山の東の土器山に陣を構えて待ち受ける。

この土器山というのは「かわらけやま」「かわらやま」などとも呼ばれていた現在の下手野の船越山神社の鎮座する山だと比定されています。

   
土器山を東から 土器山麓の案内板    
       




なぜ土器山という呼び名かというと、応仁の乱の主役の一人、山名宗全が播磨を制圧していたころ、青山の地に五重塔を擁する寺院別荘を建てたという伝説があり、この寺院別荘の瓦や土器をこの山の土を用いて焼成したという伝説があるためである。

この地が「播州皿屋敷」の元になるお話があった土地だが、それはまた別のお話。。。

下記は歴史博物館のページ、皿屋敷について、姫路市青山の紹介もあります。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend3/html/001/001.html



政秀は、今度は油断なくと、先手をとり、土器山を先制攻撃。官兵衛方は一族の者や主要な味方も失い窮地に陥る。

そこへ、英賀城から三木氏が小寺救援の兵が参戦してくる。

この参戦により、前線を押し返し、窮地に一生を得ることとなった官兵衛は夜を迎える。

翌日に持ち越すと敗戦確実となった官兵衛は、優位にこの日の戦いを終え青山の陣で休む赤松政秀を夜襲することを決める。

土器山の陣を壊滅させて官兵衛らを四散させたことで油断したのか、優位に戦っていたはずの龍野赤松勢はこの急襲をうけて壊滅、撤退してしまうのである。

この時の官兵衛の追討戦は前回よりもさらに凄まじかったらしく、龍野勢はかなりの死者を出した模様で、青山にはこの大量の首を捨てたとされる「戦国池」(現在の千石池)の名も残っている。

黒田官兵衛は智将、参謀、軍師としての名声が高いが、官兵衛の率いる黒田家という軍事集団は戦闘能力がかなり高いのが注目される。この数の上での不利をひっくり返した戦いを皮切りに連戦無敗なのである。

鬼吉川並の戦闘力に加え、官兵衛の智謀といったところだろうか。

官兵衛の小寺勢力圏と龍野赤松の勢力圏の中間には、さまざまな半独立的な国人勢力、寺社勢力が存在していたので、それらの行動に対する不安も優勢であるはずの赤松勢が踏ん張りきれなかった理由の一つであろうが、官兵衛の作戦が大成功した結果である。

官兵衛はこの二度に渡る青山の戦いで一気に播磨の外にも名前を知られることとになったのではないかと思う。

秀吉もこの時に同時進行していた播磨攻め、生野攻めに参加していた模様である。

この戦いで主要な家臣や味方の国人の多くを失った龍野赤松は、織田軍の播磨戦線縮小の方針も手伝って弱体化が激しく進行することとなった。

備前で叛旗を翻した宇喜多直家は、この織田撤退、龍野赤松の敗北という状況をみて、浦上宗景に再び降ることとなる。

直家の降伏を受け入れることで、短期間で備前を収束した浦上は再度、龍野赤松に攻め込み、政秀を降伏させることに成功する。翌年、赤松政秀は毒殺され、龍野赤松の威勢も短い期間で終わりを告げることとなる。




余談であるが、昨今、「天空の城」として話題になっている竹田城の最終の築造者は赤松政秀の子の一人である。

龍野の赤松氏親子は、再興された後期赤松氏の初代である赤松政則の男系の血筋を引く一族である。

江戸期の家督の観念でいうと本家筋となる血筋であり、みな教養の高い一族であったとされている。この一族の衰退は、守護家権力の争いとしては赤松本家を守ったかたちになるが、播磨一国という視野で見ると赤松一族の支配領域がさらに減るということになった。

大きな播磨戦争としては、最初に述べたように政治外交的には勝ち目のない戦争であり、実際に早々と動きを封じられている赤松本家、小寺本家は将軍家・織田方に降服している。小寺の本拠地周辺諸城もあっけなく落城、開城している。赤松政秀が撤退した青山戦線以外はぼろ負けなのである。青山戦線にしても、母里一族滅亡など官兵衛家臣の犠牲もおおく、辛うじての撃退というのが本当のところかもしれない。もしかして官兵衛の奇襲成功は龍野赤松側の戦略的撤退の切欠になっただけなのかもしれない。



結果としてこの戦いがもたらしたのは、織田軍の播磨介入の始まりであった。そして赤松守護家の崩壊を大きく進めてしまったという現実である。

戦後、この包囲網を戦い抜いた、小寺氏でさえ織田軍というか室町将軍の傘下へと入ることとなった。

先に恭順していた赤松本家に倣ったかたちではあるが、ここにおいて播磨・備前の有力大小名は織田方へと結果としてなることになる。

逆に困ったのが毛利である。

浦上の中国道での成長を将軍権力つまり織田軍を持って叩こうとした戦略はあてがはずれてしまった格好になり、浦上の反毛利を加速させることになった。

織田軍は浦上という毛利への押さえを確保できたこととなる。

浦上はひとまずは、備前再統一ができたわけだが、宇喜多直家という獅子身中の虫を再び抱え込むこととなる。これが後々に災いすることになるがまだ先のお話。

小寺は中播磨での基盤をさらに固めることとなる。官兵衛の台頭によって戦の強さも喧伝できる。

赤松本家はなんとか対面を保つという成果を得ることに成功する。

別所は播磨、生野の両戦線でこき使われたわりには実入りが少なかった反面、強兵ぶりを更に有名にしたと思われる。

赤松政秀が失脚したため、この時点の播磨国内で最も織田信長に近かったのは、小寺でも赤松本家でも浦上でもなく別所氏であるのは間違いない。

この時、将軍の足利義昭の存在が紐帯となって、毛利と織田が連携している。

この時点では播磨の大小名たちも「天下布武織田信長」というよりも、「室町将軍を支える勢力としての織田信長」に与しているのである。

傀儡とは言われるが、室町将軍の名声と守護大名制は、まだ使える状態なのだ。

wikiの青山の合戦の項目は下記。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%9C%9F%E5%99%A8%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


下記は黒田官兵衛をはじめ黒田氏の一族やその家臣団など黒田家全般の研究者として有名な本山一城さんのホームページの一部、青山の合戦についての部分へのリンクです。もっと詳しく知りたい方は下記リンクへどうぞ!

http://www.geocities.jp/kazzuki2001/aoyama.html

姫路市長選挙

飯島さんとは、歴史繋がり。
私のホームぺージを見て初めてお店にきてくれたのは何時だったか?
六、七年前だったかな?

当時はたまにそういうお客さんが青山三丁目にあったバレ杵屋にきてくれていた。
最初は誰かわからなかったので古代史の話をさんざんした。アイヌ語と古代日本語の類似についてとか(^^♪

帰られるときに名刺をもらった。
そこには姫路市副市長の肩書が印刷されていた(^^♪
何年前だったかな?

画像に含まれている可能性があるもの:2人、飯島 義雄さんを含む、、スマイル、立ってる(複数の人)、屋外
 
 
 

備前、福岡。刀の名産地

備前福岡

この城は、長船にあります。長船といえば備前長船。刀の名産地。

黒田家の出身地(黒田家譜では近江)とされますが、ここにはというかこのあたりには古城がたくさんあり、そんな規模の大きな城ではなかったのではないかと思われる一方、

一級武具の生産地であるということ、

足利尊氏もかなりの期間とどまったという記録や、

備前国人の松田氏が山名氏とくんでここを数十日囲んだ上に落城させた事

小寺氏、櫛橋氏もここにいたことがあるということ、

何よりも宇喜多直家がここの商人たちを強制移動させ岡山城の城下町を作り上げた

という話がある以上、城の規模はともかくも、備前国内の重要拠点として、浦上氏の本城とされる三石城周辺よりも経済的にも軍事的にも価値のある地域であったのでは思われます。

ここで、赤松時代の小寺と黒田が既に交わっていたとしたら。。。。。

黒田家は、小寺の下で浦上というか備前勢力に対するスパイ的な役割を果たしていたのではないかと思いました。与太話ですが(*⌒∇⌒*)

赤松政則2

政則の時代に飛躍的に赤松家中で出世したのが別所氏です。 

この一族は御一家衆として、浦上、小寺などの年寄衆とは別格とされています。 

残された系図では円心に連なる一族ですが、この一族が歴史の表舞台に登場するのは赤松政則の時代です。 

政則の廃嫡騒動のときに、年寄衆に引退を迫られる政則の力になった御一家衆のうちの一人として別所則治が活躍してからが別所氏が表舞台へと登場したのです。 


きっかけは前項で触れた山名の領域に攻め込んで敗退した真弓峠の戦いです。 

政則は浦上則宗ら旧臣に支えられ太守となりましたが、実権は則宗らにあったといってもいい状態でした。 

それを覆すためには大きな武功が必要だったのか、政則は独走します。それが真弓峠の戦いです。 

旧臣たちは今まで通りに攻めてきた山名勢を撃退するため注力するつもりだったのを、政則は独断で山名本拠に攻め込むことを考え、実行しますが失敗します。政則にしてみればもぐらたたきのような戦じゃなく、敵の本拠に一撃を加えることによって山名の播備作侵攻そのものをやめさせようと考えたのではないかと思われます。 

他の一門衆や家臣たちが個別で戦って山名を引き止めているうちにと考えたのかとにかく政則は但馬へと進軍して破れました。 

その頃、播備作では備前福岡城(官兵衛祖父出身地とされる)を巡る山名との戦いが激化していました。 

赤松家中は当時の播備作の最大の商都であり、備前の政庁でもある福岡城を落とされては大変だと、ここへ戦力の増派を画策します。 

京にいた政則は当初はこれに沿って動くつもりだったのか、まずは国元の浦上氏へ福岡救援の命を出す。すると山名は備前福岡への増派を先に成功させます。政則は播州へ入り、置塩城で兵を集めます。 

ところが政則は、敵方に増派された福岡城を諦めたのか、山名本拠に進軍、激戦の後、大敗して置塩へと戻ります。 

これを聞いた浦上則宗以下の年寄衆は激怒、政則を追放し、赤松家支流の有馬家から当主を迎えようとします。 

則宗は播磨で兵を集め政則を威嚇しますが危険を感じた政則は堺へ逃亡します。この頃に別所則治は政則に急接近した模様です。 

則宗、政則とも幕府を間に交渉に入り、やがて和解が成立します。和解成立までの間に備前、美作は山名の支配下に入ってしまい、政則、則宗の両者ともこれが定着するのを恐れたのでしょう。 

和解を成立させたあとは、備前、美作奪回へと赤松勢力を集中させます。このとき別所則治は政則に従い大きな戦功を上げます。英賀や書写坂本の戦いです。 

こうして則政率いる赤松家の中で大きな発言権を持つようになった別所氏は東播守護代として正式に認められます。強大な力と支配力を持ってしまった浦上則宗ら年寄衆らにとっても無視できない勢力が出来上がったのでした。 

政則の復権の原因は、一つは別所則治の活躍であると同時に、もう一つは山名氏の播備作への侵攻なのでしょう。 

対山名対策として、幕府を動かせる政則の守護としての存在意義が浦上、小寺らの年寄衆には必要だったのでした。 

外敵である山名を排除するために、内輪もめをしている場合ではないと、再び赤松家とその庶流、家臣団は一つにまとまったのでした。これもまだまだ幕府や管領の力が強かったためできた再統一なのでしょうね。 

この後、東播磨を制することになる播備作第二の戦国大名、別所氏の浮上のきっかけでした。 


山名、佐々木、赤松をはじめとする近国守護大名たちは京に常駐する事を求められていた。今川や大内という大勢力の大名は逆に遠方への備えとして在国を命じられている。室町中後期まで在国で力を蓄えた大内や今川の動きが戦国時代を更に活発化させる原因の一つとなっている。

赤松政則

則政が得た従三位といえば末期の室町将軍家と同等の位階なので、相当な高位です。 

将軍家とその姻戚、天下人と目される者を除くと武家の最高官位となります。 

黒田官兵衛武田信玄加藤清正ら有名武将も従三位ですがこれは明治政府による追贈ですから、生前に従三位となった政則さんとそれを支えた浦上則宗さんの威勢は凄かったのでしょうね。 

政則と衝突しつつも彼を、そして播備作と足利幕府を支え続けた浦上則宗は実子を全て戦乱で失い、浦上氏も養子によって存続することになる。周囲には親族も沢山いたらしいが敢えて幕府筋からの養子を得ている。 ふ

養子の代に赤松と並ぶつもりだったのか? 

播備作三国内での下克上の最初となる義村の暗殺は、浦上則宗の想定したものではなかった。養子の家督相続に有力親族が納得しなかったのか、甥?の浦上村宗が養子の跡を次ぎ当主となる。 

その村宗による政治と浦上氏の独立により、備前、美作での赤松の影響力は減少する。そして幕政に参加し、村宗にとって目の上のたんこぶ的な位置にいた義村(地元の威勢は浦上により減少していたとはいえ、将軍家の継嗣争いに絡むという中央での政治力を有していた)は村宗に暗殺されるのである。  

その村宗により擁立されたのが、赤松晴政である。 

 

こうして眺めてみると備前浦上氏というのは結構面白いですね。播備作の最初の戦国大名です。

赤松政則関連年表

1458年  

長禄の変 赤松遺臣が神璽を奪い返し、赤松政則が加賀半国の大名となる 

1462年  

政則は浦上則宗と共に京都の土一揆を鎮圧する。といっても政則はまだ8歳、実質的に浦上則宗の功績ではあります。 

1465年 

この功績を盾に播磨国内に軍兵を入れたのか、当時の播磨の正式な支配者である山名氏は播磨国内での赤松旧臣の牢人狩りを行っている。政則が元服する 


1467年 

応仁の乱勃発。政則はここまで庇護してくれた東軍の細川方に着き、赤松庶流の赤松政秀(同名の孫がいる。黒田官兵衛と青山の合戦で戦った赤松政秀)が兵を率いて播磨国内に乱入する。播磨国内に散らばっていた赤松旧臣がこれに呼応し、播磨国を実効支配し、続いて備前・美作も山名氏より奪回。 

1468年 

赤松政則は侍所別当となり、赤松家の威勢は嘉吉の乱以前に戻る。といっても政則はまだ若輩のため浦上則宗が仕切っていたと思われる。 

1472年 

応仁の乱が収束の向かう中、山名と敵対している浦上則宗赤松政秀が山名との和解を拒否し天王山で西軍と戦い、応仁の乱終結は翌年に持ち越される。翌年、両軍の総大将が死去し、一応の終結となる。義政が隠居。 

この後、10年ほどは幕府要職にもつき、一応の安定を得ることになる。 

1483年 

備前の国人、松田氏が山陰の山名氏と共謀して赤松に叛旗を翻す。政則は実権を握っていたと思われる浦上則宗の作戦を勝手に破棄し直接、山名の本拠に攻め込むが大敗。この負け戦(真弓峠の戦い)のため備前、美作の実効支配も失うことになり、怒った浦上則宗は政則の廃嫡に動き出す。このとき廃嫡に同調したのが小寺政職、そう、官兵衛が仕えることとなる小寺氏だった。 

このとき、赤松側の備前における政庁はなんと、備前福岡城!、黒田官兵衛の祖父もここにいたに違いない。ということは、小寺と黒田の関係というのは既にこの頃から成立していたのではなかろうか。 

1484年 

政則は廃嫡の危機を幕府や前将軍の義政の助力を得て回避し、浦上則宗、小寺氏とも和解することに成功し、再び、播備作統一を目指すこととなる 

1485年 

備前の山名・松田への攻撃再開。山名側も播磨へと進出したりして一進一退の状況が続く。 

1487年 

ついに、山名の影響力を排除することに成功する。英賀の戦い、書写坂本城の合戦で勝利した政則は名実共に播備作三国太守へと返り咲く。 

この時、「鬼吉川」こと安芸大朝の国人領主の吉川経基が赤松側として参陣し、大活躍している。 

吉川氏はと播磨の国の関係としては、かつて播磨国福井荘で吉川氏が地頭を務めたという因縁もある。 


1489年 

政則は広峰社に太刀を奉納し、赤松義村を養子に迎える。義村は京都に分流していた赤松円心の子孫の家系であり、七条に邸宅があったため七条家という家系の出身である。七条氏の最初は赤松光範とされ、円心の孫であり、円心の長男たる範資の子。義村はその家系から赤松家惣領の養子となり、後に政則の跡を継ぐことになる。彼の最後は重臣の浦上による暗殺である。 


義村の子が今姫路で行われている三ッ山大祭を始めた人物、赤松晴政である。 

1491年 

政則は将軍、義材(稙)に従い、近江に進駐し六角氏を追放する。六角氏といえば黒田官兵衛の祖先の出自にも関わる名門であり、戦国大名としても有名。 

1493年 

実子が誕生するも、家督相続はかなわず、実子は龍野赤松へ預けられることとなる。 

1496年 

従三位に叙任。その年に死去する。彼の死後、播磨には再び戦乱が巻き起こることとなり、赤松家中は分裂への道を進むことになる。 

政則と衝突しつつも彼を支え続けた浦上則宗は実子を全て戦乱で失い、浦上氏も養子によって存続することになる。これが播備作三国内での下克上の最初となる。義村の死というより浦上氏の独立により、備前、美作での赤松の影響力は減少する。

高砂、生石(おうしこ)神社

春の和菓子
姫路青山銘菓
「桜小径」
筆者おすすめ!
姫路名物 
「書写千年杉」
筆者おすすめ!

 

播磨風土記 番外編その2
「石の神、オオナムチスクナヒコナ
当ホームページ内の「古代出雲王国の謎」のコーナーにある「スクナヒコナの正体」の補足です。


生石神社(おうしこじんじゃ)

主祭神「オオナムチスクナヒコナ」(大国主スクナヒコナを同一化した神格)
ご神体の石が『日本三奇』の一つとして有名。『石の宝殿』ともいう。
兵庫県高砂市宝殿阿弥陀

他の二つは、仙台塩釜神社の塩釜、宮崎県霧島神社の天逆鉾

社殿には、『神代の昔大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)の二神は天津神の命を受け国土経営もため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多数神々を集め(当時の神詰 現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明されたのである以来此の宮殿を「石乃寶伝、鎮の石室と稱して居る所以」』と、ある。


『鎮の石室(しずのいわや)』
通称は『天の浮石』
この、神社の池の中にある巨大な石は、約7メートル四方で高さは約6メートルある。下部は池の水に隠れているため、池に浮いているようにも見える。建物との配置関係もあるが、巨大すぎて一枚の写真にははいりきらないほどの大きさである。

播磨風土記の印南の郡大国の里の条には、以下の話が記載されている。
『原の南に、石の造作物がある。その形は家屋の如くで、長さは二丈、幅は一丈五尺で高さも同様である。その名号を大石という。言い伝えによると聖徳大王の御代に弓削の大連が作った石であるという。』

平凡社刊行『風土記』吉野裕訳」による。

なんと!「聖徳大王」である。弓削の大連といえば物部守屋!!!!!
という風土記の記述を信じれば、西暦587年(物部守屋の死)頃には、この大石はここに存在し、かつ物部氏の管理下にあったということになる。しかもこの時期の天皇は、用明、もしくは崇峻なのである。
これだから「風土記」は面白い。


石の宝殿以外にも、3箇所に(他にもあるかもしれません)「しずのすわや伝説」を見つけたので下記に記します。現在、計四箇所を確認しています。



まずは
島根県大田市静間にある「静之窟」。「大国主スクナヒコナがこの地に鎮まったので静間という地名付いた」という伝説を持つ土地でもある。

岸壁にある洞穴の事であり、目前には砂浜がある。洞穴中には石碑と鳥居がある。落石、崩壊があるようで人気はまるでなかった。洞穴の中には「寄りつき」つまり漂流物がそのままになっている。

訪れたのが風雪警報の出ていた日であったので、洞穴やその周辺はなんとも言い難い雰囲気で、ワダツミの声が聞こえてきそうな感じさえしてくる。


次に同じく島根県の瑞穂町にある「志都岩屋」。こちらは巨大な自然石が積んである。周辺はハイキングコースにもなっているが、現在はあまり人影はないらしい。巨岩信仰の聖地といった感じだろうか?

瑞穂町のすぐ隣にある広島県大朝町は戦国時代に製鉄を主産業として中国地方にその名を馳せた吉川氏発祥の地でもある。石見地方を流れる江の川の流域でもあるこのあたりは古代においても流通があったことが偲ばれる。

以下6枚の写真は梅花女子大学 日本文学科 市瀬雅之さまご提供の写真です。
以上6枚の写真は梅花女子大学 日本文学科 市瀬雅之さまご提供の写真です。

さらにもう一つ「静之窟」伝説があった。熊野、根の国イザナミ伝説など出雲と類似点の多い紀国である。和歌山県西牟婁郡串本町潮岬にある『潮御崎神社』(祭神は少名彦名命)に纏わる伝説がそれである。
紀伊風土記 巻之七十六 牟婁郡 串本浦 上野浦』にある記述だそうだ。

この伝説によると、景行天皇の28年に少名彦名命をこの地にあった「静之窟」に勧請したのが潮御崎神社の創始であるという事だ。

この神社と伝説ついての詳しい説明は神社のデータを集積しておられる瀬藤さんの「神奈備にようこそ」のホームページにに詳しいデータがありますのでそちらを参照してください。

「神奈備にようこそ」トップページ

潮御崎神社のコーナーへの直リンク


どの「しずのいわや」にも万葉集巻の三に記載された生石村主真人(おひしのすぐりのまひと天平10年ごろ石見国庁に勤務?)の

「大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經」
(大汝少彦名のいましけむ志都の岩屋は幾世経ぬらむ)


という歌が添えられているのもミソだ。
高砂の「鎮の石室」は平野部静間の「静之窟」は沿岸部瑞穂の「志都岩屋は山間部という違いがあるのだが、この違いはこの二神に対して信仰を奉げた人々の幅の広さを表しているように思える。それだけこのニ神の知名度が高かった事と親しみ安さがあったことが感じられる。

これら三つの「しずのいわや」からは石材、砂鉄、そして海洋交易といったキーワードが見えてくるようにも思えます。トンデモ的ですが(^^ゞ

いずれの
「しずのいわや」にも生石村主真人が上記の歌をこの地で詠んだという伝説がありますが、私は今のところ、この歌以外に「阿賀野神伝説」、「風土記の大石伝説」をもつ石の宝殿が本家のような気がしています。


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