古代出雲王国の謎

古代出雲王国の謎を中心とした歴史がテーマのブログです。

ヤマトタケル神話と出雲神話のかかわりについて

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崇神朝の謎
ヤマトタケル神話と出雲神話のかかわりについて。」

~プロローグ~

ヤマトタケルの実在を云々する前に、欠史八代を述べるべきなのだろうがここでは深く追求はしないでおこうと思う。欠史八代はそれより以前の事と推察される「神代」のことでさえ詳述されているのに対し、系譜を淡々と述べるに留まっている。そして異様な長寿、これらにより実在が疑われているのである。


簡単に私の考えをいうと以下の通りである。

欠史八代天皇=大王は存在はしたが崇神朝までは大王と呼べるほどの力も実績もなかったのではないかと考えている。奈良盆地周辺の一地方の首長であった崇神天皇の時代に四道将軍の活躍に反映される軍事活動によりヤマトの大王と呼べるほどの地位を手に入れたのではないかという事。」 


このように、欠史八代崇神の先祖とだけ理解するのが妥当なような気がしているのである。 


さて、崇神天皇の時代といえば卑弥呼、トヨの時代と重なると見られている。つまりは3世紀後半から4世紀初めである。この時期には古墳祭祀が本格的に始まるのが注目点である。さて、この墳丘墓祭祀が前方後円墳という巨大な古墳に発達した背景には吉備・播磨の平野が統一され穀倉地帯となったことがあるのではなかろうか? 


播磨風土記を見ると、地元の国津神伊和大神についての記述を除くと神功皇后応神天皇の巡行がとくに目をひくが、その前にも天皇の巡行がある。それはヤマトタケルの父、景行天皇の巡行である。景行天皇も各地に自ら征討軍を率いて乗り込んだ記述が記紀や九州の風土記を中心に多数残されている。また景行自身もあまりにも超人的な天皇なので実在を疑われている。記紀神話熊襲討伐のみならず先ほど挙げた播磨風土記、そして常陸風土記にもその足跡を刻んでいる。 


系譜としては崇神朝(三輪王朝)に属するのだが、あまりにも熊襲討伐の印象が強く九州王朝という見方さえできそうだ。その後に続く成務の時に武内宿禰が大臣となり、更にその後の仲哀も九州で命を落とすあたり九州とこの王朝の縁は深いような気がする。書紀の武内宿禰成務天皇は同日生まれという記述も何やら怪しげなものを感じさせる。がこれについては後述することにしよう。 


酒宴の警備を二人して買って出て、酒宴に参加しなかったりもする。ひょっとして武内宿禰と成務は同一人物ではなかろうか?この二人の時、天に二日ができたのかもしれない。書紀、古事記ともに成務の事跡が少ないのが気に掛かる。全国の境を決めるということは、国家の基本でもある。それを成し遂げたはずの成務朝の記述はどうして少ないのだろう???この時期、境界線を決めるにあたって、もっとも活躍した人物は誰であろうか?そう、武内宿禰とは、蘇我氏の祖であるのだ。 


もしそうなら、成務は大和、武内は九州なのか?逆かもしれない。いろいろと考えられる可能性はあるがこれについては後述することにしよう。しかしである。九州に王朝があったとしても、大和にあったにしても崇神から仲哀までの崇神朝全体での各地への討伐説話は凄まじいものがある。

 

南九州から関東まで軍の移場所が王朝のような雰囲気である。どちらか一箇所ということでは単純に納得することはできない。この王朝の動きと性格は後世の「幕府」そのものといった感じである。もしかして、崇神朝は大物主朝廷の幕府であったのかもしれない。いやいやこれは妄想の行きすぎか。 


話は変わるが九州王朝といえば、伊都都彦なる人物がいて天之日矛の渡来時に、自分が倭国の王だ他に国王などいないと日矛に言い放ち、自分の側にいる事を命じ、さらに国内をうろつくなと命じたらしい。この時の天皇とされる人物は崇神の息子垂仁であり、彼は四道将軍の北陸方面担当の大彦の娘を皇后とし、この二人の子がヤマトタケルの父である景行天皇である。 九州はかくも独立心が強い。というか大和の政権に対し臣従しているという意識が無かったのかもしれない。戦いを選択できない時だけ従属の姿勢をみせたのかもしれない。このあたり、戦国期の室町幕府と九州の大名との関係に近いのかもしれない。というより、大和の王権を大事な交易相手としてしか認識してなかったのかもしれない。だから、交易の相手としては下にも置かぬが、交易の利益は九州が得るという感じだったのかもしれない。 


いずれにしても、垂仁は九州に舐められた存在であったのだろう。突然やってきた日矛に対しても、毅然とした態度とは言い難い態度をとっている。むしろ伊都都彦のほうが大王らしくさえ感じる。日矛は垂仁を気にいったらしいが・・・・・。好きな土地に移って自由にしていいと言われれば当然といえば当然である。日矛は新羅方面との関係を匂わせている存在なので、新羅崇神朝、九州地域と南韓、という経済圏があり双方が対立していたのかもしれない。 


伊都という文字を見ればといえば伊都国がまず思い浮かぶ。魏志倭人伝のアレである。大陸、半島との窓口になったあの国だ。戸数が少ないのにも関わらずこの国の王は偉そうだ。農耕や漁業による利益を当てにした産業経済でないのは明かなような気がする。現代でいうと、株か先物取引といった事業で儲けていたのか?大陸からの珍品・貴品を高値で日本列島で売りさばき、日本列島でしかとれない珍味・珍品を大陸半島に高値で売っていたのか?いずれにせよ、九州王権は地元以外では「地に足のついた支配体制」ではなかったのだろう。 


また記紀神話で伊都といえばイザナギの佩いていた剣の名前である。イザナギノミコトとは伊都の武装集団のことか?とにかく伊都国に比定されている三雲遺跡の副葬品の豪華さと幅広さは、2世紀ではダントツに凄いものらしい。成金の墓のようにも感じる。魏の使節が常駐する地域であるとされている伊都国には普通の「クニ」とはまったく違ったニュアンスがある。 


最初は魏の後ろ盾を得てつまりは、東アジアにおいて正当とされた倭国(九州)と、倭人の作った王権である出雲のあいだで列島の覇権が争われ、後に出雲の地位を受け継いだ大和と九州の戦いによって、倭国の覇権は大和朝廷に移ったのか?となると崇神朝というのは、本当の意味での「倭国統一前夜」という位置付けでいいような気がする。続く応神朝で本当の西国統一が成し遂げられたのか? 


世界最大の規模を誇る巨大古墳は、九州の富、出雲の富そして瀬戸内海沿岸や関東地方の富まで集約したのが河内王朝と呼ばれる応神朝であったのか?前方後円墳であるあたり思想的には崇神幕府に通じ、経済的には九州王朝に通じているのかもしれない。古代日本を彩る九州の富の権利は応神以後河内に移ってきたのかもしれない。 


さて、各地を転戦した崇神幕府の戦費、兵糧はどうやって賄ったのか?

 

騎馬軍団なら、現地調達と言う名の略奪、移動先が本拠地となるかもしれないが、そういう可能性(騎馬軍団渡来説?)も低そうだ。となると通常通りに兵糧を手配してからの移動と考えたほうがいいだろう。

 

その場合、やはり船が重要な輸送手段になるだろう。しかし三輪王朝は成立当初船を持たなかったとされている。船をもたない王が日本列島各地を支配していたとは到底思えない。やはり三輪の崇神王朝は本来、全国政権などではなく三輪地区周辺の王統であったのではないだろうか?

岐の神

 2003/1/29

出雲大社の本殿東側にある北島国造館内にある
「天神社」。祭神はスクナヒコナである。

五十猛命とオホナモチスクナヒコの全国行脚はそれこそ「領土権の主張」そのものだったのではないかと妄想しています。

その理由として「木の種を播く」と「山・丘に対する命名」の二つがあります。

まず、「木」なんですがこれは「岐」に通じるのではないかと推測しています。大国主のトピックでも話題になった「サエノカミ」「塞ノ神」(トンド祭り?)も「木」「岐」を根本においた祭祀のように思います。

播磨国風土記によれば、明石にその陰が淡路島にまで掛かる大木が立っていてその木の位置が摂津と播磨の国境だったようです。この事から「木の種を播く」という行為は、「国境を定める」という意味があったのではないかと推測しています。明石の大木は淡路、摂津、播磨の「岐」を示しているです。

そして、オホナムチスクナヒコは稲作を広めると同時に山や丘の命名をして全国を巡っています。名をつけるという事は「言霊」の観点から考えると名をつけた対象を支配するという意味があるように感じられます。

二柱の神が名をつけて廻った丘や山そしてそれらこ囲まれた盆地こそが出雲族が領有権を主張した地域とは考えられないでしょうか?

稲作による経済活動を広めるために全国を廻ったのではないかと思っています。と、同時に丘や山に名をつけてまわったのです。

例えば、姫路の語源である「日女道」はスクナヒコが命名したという事になっています。現在姫路城のあるあたりは昔『日女道丘』と呼ばれていたそうです。

「日女」は蚕を指すことから、出雲族は養蚕も行っていたと推測できます。

それとは違い、播磨国風土記では平野にある川や林・杜などの地名説話には出雲族(=国津神?)による地名説話よりも、神功皇后応神天皇を初めとする天孫族(=天津神?)によるものが多く見受けられます。

これらの事がらから、出雲族は盆地や山・丘の領有権を主張し、平野部にはあまり執着してなかったのではないかと想像しています。これは生活に根ざす祭祀の違いから発生しているようにも思われます。

逆に、天孫族は森や林、川などに執着している。これは水利に拘ったからではないでしょうか?何故水利に拘ったかというと、平地における水田耕作が天孫族の生活に不可欠だったからではないかと推測します。

スサノオ稲田姫(稲と田?)を水害(ヤマタノオロチ・蛇神?)から守る事により英雄神となりますが、水害から身や作物を守り、蛇神信仰を克服しそれ以前のアニミズムから1歩前へ進んだ事を表しているように思います。

そしてそれは、スサノオという英雄以外には出来なかったことなのかもしれません。

天孫族の登場を待つまでは・・・・・・・。

オナモチスクナヒコも稲作の伝播に関わっていたように思いますが、それは天孫族が繰り広げた平地の水田開発ではなく、盆地や山地の稲作に適した自然条件の地を見つけそこを出雲族の地として支配を広げていったのではないかと妄想しています。 

 

そして彼らの稲作は平地の水田耕作以上に太陽の恵みというか照射角度により大きな影響を受けたのではないかと思います。だからこそ太陽の運行を計測する必要があり、それが続くことにより、ひとつの祭祀の形となった。それが出雲の太陽祭祀の源であり、他の祭祀よりも太陽祭祀が出雲で優先された理由の一つだと思います。

 

弥生期に、太陽の運行を計り、また交易や外交を通じて大陸文化から「聖=暦」=太陰暦を受け入れていたとすれば、卑弥呼の時代の王権は「皆既日食」などを理由に「王」を殺すなどという原始的政権ではなかったといえるのではないでしょうか? 

 

古代出雲王国の謎

スクナヒコナと両面宿儺についてのトンデモ

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スクナヒコナと両面宿儺についてのトンデモ2003/1/29

写真は、大田市静間町の静之窟外観。
岸壁に開いた洞穴に大国主スクナヒコナが奉ってある。
否が応でも、「海」を意識させられる「神域」である。
当地の伝説では、二神はここに鎮まっていることになっている。

出雲に似た響きの外国、インド。出雲海洋民の源流はインドなのか?

 

さて、スクナヒコナである。

彼はどうして出雲にやってきたのだろう??

出雲側からみれば、彼の知識は国造りという開発事業をもたらした事からも「客人神信仰」の一種ではある。しかし彼は国造りの途中どこかへ言ってしまう。

黄泉の国へ行ったというのは、つまり死んだという事ともいうが、ここで新たな可能性を追求したい。

出身地へ帰っていったと考えてみたい。そこで問題なのが出身地である。

突然だが、私は出雲国造りの年代をおおよそ紀元前3世紀から紀元前2世紀にかけての出来事だと思っている。この時代は大陸では秦末の混乱があり、漢の統一が進められた時代でもある。そしてアショーカ王の仏教の布教がインドの海洋民や放牧民によって東西南北に発信された直後の時代でもある。

そう、インドといえば米作起源地の一つである

「稲を運ぶ」というのはオオナモスクナヒコナの得意技の一つである。
彼らが置いた稲の束は山や丘へと変化する。


これは、各地の風土記での丘の傾斜地や盆地の地名説話にも現れている。

ここでちょっと眉唾な伝承を紹介しよう。

滋賀県にはアショーカ王の石塔なる遺物が今も存在する。

アショーカ王の命令によって仏教を広めに来た者が滋賀まで辿りつき、その証として立てていったという伝説があるのだ。確かにこの石塔が建てられた年代は古いそうだが、この時期に符号するかどうかは解らない。

さらに、滋賀から少し離れてはいるが岐阜県には{両面宿儺}なる怪物伝承が残されている。両面宿儺とは背中同士が貼り合わさり(多数の敵に囲まれた二人の侍が背中をつけて前後を守りあっている状態??)、体の前後がない妖怪で、洞窟に暮らしていたらしい。いわゆる穴居人、ツチグモなのかもしれない。縄文人も穴居生活をしていたらしい。因みに「儺」の文字は「オニ」つまり「人外のモノ」を指すらしい。

だが、近年の発掘で縄文期の人々は巨木文化の担い手でもあることがハッキリしてきた。縄文、弥生、古墳など古代人を時代ごとに一括りに考えるのは無理がでてきたといっていいだろう。

もうひとつ、石の宝殿といえば姫路のお隣で高砂である。ここにもアショーカ王に纏わる伝説が存在するらしい。詳しくは知らないが何やら「鐸」と関係するらしい。石の宝殿だけに石鐸でもあるのか???

因みに石の宝殿にはとても大きな人工的に削ったような巨石があるのは有名だ。物部氏もしくは蘇我氏の遺物であるという説、オオナムチスクナヒコナの手によるものという話もある。(播磨風土記 石の宝殿 生石神社参照)



この写真が宝殿の巨石である。
石の高さは六メートルで、
天辺の広さは七メートル四方
の面積を誇る。
詳しい説明は、上の写真をクリック!!

いずれも、詳細な推定年代は不明である。両面宿儺に限っては日本書紀の仁徳紀に記されているようであるが、仏教・ヒンズー教的というか東南アジア系要素が「(巨)石」にには在るのだろうか??そう言えば「石貨」なる石の貨幣が東南アジアのどこかの島で現在も使われているという話もどこやらで伺ったことがある。

北方=巨木、南方=巨石というような源流文化があるのかもしれない。

そう言えば、スクナヒコナの変わりに大国主の国造りを手伝うことになる「大物主」は物部氏との縁が深いという説も存在する。「石の宝殿」という土地で物部氏スクナヒコナの伝承が交錯しているのかもしれない。

聖徳太子の時代に行われた物部から蘇我への権力移動は、大国主のコンビ相手がスクナヒコナから大物主へと移り変わるという神話に何かしらの影響を与えているのかもしれない。

さて両面宿儺である。妖怪扱いするところを見ると両面宿儺と仁徳朝の者たちは生活風習は勿論の事人種や使用言語が違っていたのだと思う。つまり彼らは倭人でも韓人でもなかった。

「スクナ」とは、ずっと職名の「宿禰(すくね)」が由来だと思ってました。がしかし妖怪(外国人?)に名前が使われているということは、何かもとになる音があってそれを古代倭語であらわすと「すくな」という表記に近い音になるのではなかろうか?そして官名の「宿禰」は外人担当の役人を指すのか??

スクナヒコナの「スクナ」は「小さい」という意味だと今の今まで思っていたが違うのかもしれない。ある特定の人種を指す言葉ではなかったろうか?

宿禰が役職名となる以前の「スクナ」「宿儺」の特徴を集めて見よう。

1・倭人ではない
2・洞窟や山地が好きなようだ
3・小さい?
4・米作りに関係している
5・やってきてどこかへ行く
6・山や丘が好きだ

うん?何も解らない。別の側面から考えて見よう。

どこからかやって来た事だけがハッキリしているスクナヒコナの乗ってきた船は、どんなものか??

「羅摩船」である。「かがみのふね」と読む。音読みすると「ラマ船」である。「ラマ」?何やらインドや東南アジアの響き?(強引な展開ですいません)。

強引ではあるが、ここでスクナヒコナはインドからきた海洋民だったと仮定してみよう。東南アジアやインドには、ワニがいる。ワニといえば水神クンピーラである。日本では金毘羅さんとして有名だ。金毘羅といえば、大物主。大物主といえばスクナヒコナの後釜。大国主と同一の神格と考えられている。

そして因幡の白兎とそっくりな説話がインドにはある。大国主が、白兎を助ける話である。この話は決して人情厚き大国主だけを表しているのではなく、医療技術と薬の知識が出雲にあったという事を指し示している。しかしこの話の内容自体が日本列島まで伝わったというのが面白いところだ。記紀編纂時までに大国主の話として定型化していたのだとすれば、仏教公伝よりも相当前に説話のかたちでつたわったのだろう。

日本書紀によれば、オオナモスクナヒコナはオオミタカラに様様な農業技術や知識を諸国をめぐり教え伝えたという事になっている。技術や知識と同時にインドラや白兎の神話も日本各地にひろまったのだろう。

話がそれたが、インド東南アジアとスクナヒコナである。もしスクナヒコナやその他のスクナ達がインド周辺から海をわたってきたのなら、古代インドの何かが日本に伝わっているはずである。それがアショーカ王の石塔、因幡の白兎などの説話ではなかろうか??

ここで一端、両面宿儺に話を戻そう。

両面宿儺は、スクナヒコナと違って悪神の要素を持っている。スクナヒコナ出雲族関係者と認識すれば同じように天孫族に滅ぼされたのだが、こちらは好いところなしどころか化け物扱いだ。

同じくインド周辺からの渡来者だとすればこの差は何か??

答は簡単である。両面宿儺の持ってきたものは既に倭国にあったのだ。そうなれば外国人を取りたてて持ち上げなくてもよいのではないか。教えてもらう事、新しい事を両面宿儺は倭国の民や指導者に持ち込まなかったのだ。それどころか新参の宿儺は治安だけは乱す邪魔者でしかない。仁徳朝の記録は、まるでどこかの知事のような言い分だ。

ここで注意したいのは、スクナヒコナも両面宿儺も何も倭国に良い物を持ち込む事が目的でわざわざ船に乗ってきたのではないのだ。交易が目的か?それもあるだろうが港でなく、山の中に入り込むメリットがそれでは丸きり無くなってしまう。

しかも飛騨の山奥である。飛騨の山に両面宿儺は何を求めてやってきたのか?
スクナヒコナも何故船に乗らず大国主と共に列島中の山や丘を巡ったのか?
そしてどうして中途半端で消えたのか?

唐突ですが、私は、スクナヒコナは銅山や鉱山を探しにやってきたのではないかと疑問視している。

紀元頃にあれだけの青銅器を鋳造するためには、それよりも前から、青銅器の原料を取り出すための鉱山知識は出雲に伝えられていたのではないかと思うからである。

出雲の王たる大国主の嘆きを無視したように起こったスクナヒコナの「唐突な消滅」は己の目的の終了と共に、スクナヒコナが鉱山発見の仕事を果たし、自発的に出雲の地ひいては日本列島を離れることを意味しているのではなかろうか?

スクナヒコナが何処へ帰ったかどうかは何処から来たかと同じくらいの「謎」である。

出身地に帰って、東のはての日本列島は火山の国で鉱山でいっぱいだったと宣伝したのかもしれない。両面宿儺はその伝説を元にインドの周辺から鉱山の国目指してやってきたのかもしれない。彼らは倭人や韓人らから見れば異様な格好をし、飛騨の山奥で穴を掘って生活してたらしい。

一説によると神武天皇天皇の位を授けたのは誰在ろう両面宿儺だとも言う。その儀式は飛騨の山中の位山で行われたらしい。飛騨の山奥で彼ら東南アジアからの探検者たちは鉱山を探していたのではないだろうか??


[古代出雲王国の謎]

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神仏混淆

平清盛神仏混淆 大河ドラマ平清盛」を観て思ったこと

日本の古来の神々というのは、古代豪族たちの先祖神であるという側面を除くと、自然神、精霊神に近いものです。こういった神霊を「アミニズム」と呼んだりします。

太陽に月、海に島、陸地に、風に、山川草木に、水や火、石、器、食料、酒、植物、動物、天体の動き、天候、そして薬などなど。。。

それらすべてを古代の人々が「当時の科学によって解明し意識したそれらに宿るモノ」を神として認識、その理屈を考え記したものでもあるのです。

つまり古代の日本人とそれを取り巻く環境を「神」として考え、祈り、利用し、また感謝し、また相克してきたものが日本列島の八百万の神々のもう一つの姿であり、記紀や朝廷の系譜作成以前の本来的な姿でもあるのではないかと思います。

日本の場合、それらの神が豪族の政治的要素を含んだ形の祖先神としての側面もあり、アミニズムとも微妙に違うような気もします。

そういった八百万の神々への祭祀を「日本の神道の起源」とした場合、確かに古いのですが、長きに渡る神仏混交時代を経て、古代の神道の祭式というものは社家や寺院などによる神道研究の文献の中にしか存在していませんでした。

それら文献から想像して、明治期に国家的規模で作り直したものが現在の神社神道の基となる国家神道です。

もちろん天皇家内部に伝わる祖先神への祭祀、各社家、地域の鎮守の祭式などに残されている地主神への作法、祭式もありますがそれらは今我々が知っている神社の作法とは微妙に違います。柏手の打ち方ひとつにしても伊勢は八開手、出雲、宇佐などは四拍手と古式を残していますが、明治期に統一された柏手の打ち方は二拍手です。

神仏習合、混交の歴史というのは、明治までの日本史そのものです。

最初は、仏教が藩国(となりくに)の神として認識され、神道のというか日本古代信仰の一部が仏という「神」を信仰する形でした。

といっても、それが記述されている最初の歴史書、日本書紀の成立時点で、初期の編修、執筆にかかわったとされる僧呂・道慈(遣唐使でもあり、現在流行り?の聖徳太子架空論のキーマンの一人)の影響が既にあります。日本書紀自体が既に仏教的な影響を受けることにによって成立したとも言えることになります。

百済滅亡時に百済王族、貴族が日本列島に流れ込んだ形跡があるため、それらの人間らと同時に仏教先進国の百済の知識も大量に流入したことでしょう。

その後、弓削道鏡(仏教伝来以前の古代の神道祭祀の代表格、総責任者的豪族とされる物部氏の子孫であるが僧侶)に絡む宇佐八幡神託事件など神仏両者の絡む政治体制が確認されます。神への祭祀を担当した氏族の末裔が仏教に帰依するということは、それだけ古代祭祀的なものが仏教的にも理解されていっていたということを表しているのだと思います。

さらに、聖武天皇の時代に社や神殿は祖先神や地主神、自然神への祭祀の祭式の場となり、人間社会に対しての教義的性格を持つ仏教が国教化を始めます。奈良の大仏建立、国分寺、国尼寺の設立という形でそれが決定付けされます。

また平安京開都の直後に最澄空海が入唐しそれぞれに経典を持ち帰り、鎮護国家、王城守護の任にあたります。

このあたりから、仏教の仏と社で祭祀される神々を同一視しようとする考えも同時に発生を始めます。

例えば、奈良の大仏は、盧舎那仏ですがこれは光明遍照という仏名をもつことから太陽神と同一視され天照大神と習合していきます。アマテラスは大日如来ともその名の同一性から同一視されます。

その後は、日本書紀にある神々の名や各地の大社の神々がその功徳や祭祀の内容、現世利益の種類などによって、仏教の神々の化身として考えられるようになります。

本地垂迹というやつです。

また、主客逆転した形で日本の神々が主体で仏教神というのが化身だという考えも後々芽生えだします。

これは、鎌倉中期からはじまり、江戸期の習合神道に影響を与えます。しかし、鎌倉期というと、日蓮宗に代表される鎌倉新仏教というくらいに宗派が発生し、仏教が庶民までいきわたる時代の始まりでもあるので、日本全体的にみれば仏教主体の神解釈が優勢のままです。

神仏習合時代というのはこのように、神道と仏教が別々に伝えられたものではなく、ほぼ同じものとして認識されて一つへと収斂されていく時代なのです。またこういう神々と仏は同一のモノであるという解釈研究は仏教側の研究によってより深く、広く進められていきます。

例えば両部神道というものは真言宗の立場から、日本の神々を解釈しなおしたものです。

神仏習合の流れは、山王一実神道(比叡山僧侶の神道)によって江戸期に「完全に僧侶が創造し作った神社」として徳川家康を神として祭祀するための「日光東照宮」という形でピークを迎えます。これは、「僧侶による僧侶のための宮」といっても過言ではないでしょう。

僧侶は「呪術」というものに対して仏を直接りようするより、八百万の神々の神性や霊性を利用する方法を選んだのかもしれません。

その反面、東照宮建立と同時期の出雲大社でも本殿造営が完了したのち、自発的な神仏分離が始まっていきます。これは、出雲大社から別当寺の僧侶を追い出すというものでした。

スサノヲからオオナムチ=アメノシタツクラシシオオカミへの祭神変更といった出雲神道理論的なものが背景にあると同時に、出雲大社自体の収益性が、全国にひろがる出雲講や大名たちの寄進により、かなり良かったからなのかもしれませんが。。。

仏教が中心というのは、あくまで文献から推察されるもののと、各時代の政府の対応制度を眺めるとという意味であって、庶民の神や社、お宮にたいする信仰がどのようなものであったかとはまた違う話でもありますが、庶民の信仰の様子というのは、江戸中期以前については、それこそ仏教文献を見ないとわからないといったような状況です。


また、奈良、平安初期の朝廷祭式として有名なのは神道や仏教ではなく、陰陽道ですよね。

この陰陽道神道的な祭式は吸収されていきます。でこれも仏教興隆につれて廃れていき民間信仰や修験信仰という形に変化していきます。陰陽道的なものは今も易断のような形で残っています。

で、神に対する信仰、研究というものも仏教側にゆだねられるかたちとなっていくと同時に、天皇家の先祖供養の祭祀も仏教寺院に預けられていくこととなっていきます。泉涌寺がその担当になり桓武天皇以降の皇室先祖供養は仏式となります。


大河ドラマ平清盛」でも、比叡山の僧侶が神輿をつかって強訴しますよね。

これは僧侶は「社」と「社」の権利、権力または付属物を自由に使えるという立場であることを表しています。

また清盛や後白河が良くお参りする熊野は、熊野権現とよばれ、これも神仏が一体となった神です。平安期の熊野三山薬師如来阿弥陀如来、千手観音が祭祀される混交寺院、そしてお山全体が神域となっています。

ドラマでは触れられていませんが、熊野別当というのが熊野一帯の宗教的支配者であり漁業、航海、軍事までも含めた熊野地域の指導者という立場なのですが、熊野別当平治の乱のおいて清盛に味方したことが平治の乱までの動きや政局に軍事において平家を有利にしたといわれています。

彼ら熊野の勢力は後に、平家優位とされた海戦で義経の采配を支えたとも言われています。

平家納経は法華経が中心の経典でありその主な内容は観世音菩薩への信仰を表すものとされ、観音経ともいいます。

厳島には現在、宗像三女神が祀られています。その中の一柱がイチキシマヒメといいますが、この神名が厳島の名前と通じていますよね。

イチキシマは、弁才天との習合でも有名ですが、弁才天は菩薩信仰の一形態とも認識されていますので、広い意味では、菩薩>観音菩薩>イチキシマ>厳島という連想が想像され、それらは本来同一の神仏の別形態、別名称であるという考えが成立するのもうなづけます。

また観世音菩薩の仏像は女神形態ですので、三女神とも通じます。

清盛が後白河院に寄進した蓮華王院には千手観音が祭られており、後白河院の熊野への信仰と繋がっています。後白河院や清盛は記紀の神と仏教を二つ信仰したのではなく、観音菩薩を窓口に信仰心を高めて行ったと思われます。法華経密教において重要な経典であり、密教において千手観音菩薩は蓮華王という神名ですから比叡山高野山とも信仰的につながっていきます。

平家が寄進した三十三間堂、平家納経三十三巻、西国で広がる三十三箇所巡りなど三という数詞もキーワードです。

怨霊対策の基本は陰陽寮がつかさどりますが、仏教の方がより強力な神として認識され、それまでの「陰陽によって災いを避ける」から「密教的な加持祈祷によって神仏の加護をうけ魔や災を調伏」するという方向へと進みます。もちろん仏だけでなく、日本の神々もそれに対応して、神格が変化していき、「魔を避けるための神」から「魔を滅する神」「ご利益を下す神」へと認識が変化していきます。

平宗盛は、その行動の全てを陰陽師に諮ってから決めたといわれ、その決断の仕方が源氏とくに源義経との差になったといわれている人物です。彼の行動、決断というは平安末期の貴族の宗教観を端的に表しているのではないかとも思えます。

「この世をば」で有名な藤原道長の最期は、仏法に囲まれて病気平癒を願いながら、読経を聞きつつ亡くなったという話も伝わっているように平安中期までには仏教が皇族、貴族の信仰対象でした。

熱心な仏教徒であった後白河院や清盛が怨霊をそれまでの貴族のように恐れなかったというか大きく扱わなかったのは「自分には神仏の加護がある」と信じていたからなのかもしれません。

またドラマではここまで、「社家」という立場で平安末期の政治に関与したものを出していませんが、史実的にも極少ない状態です。

義朝の妻、由良の父が上西門院の配下の中級の貴族として熱田大宮司の立場を得て、頼朝の出世を支えたという以外、出てくる勢力は「仏教」ばかりです。ちなみに熱田は古代史的にも有名な草薙の剣が祭られているとされる社です。

無神論者と誤解されている織田信長も熱田への寄進はしています。それと同時に信長は家臣のために寺院も建立していますので、彼も決して無神論者でなく当時の神仏習合の世界の住人です。

古代からずっと、尾張氏と呼ばれる古代豪族で「古代の関が原合戦」と呼ばれる「壬申の乱」で天武天皇の勝利に貢献したという氏族の末裔が熱田社の宮司の座を世襲してきましたが、平安末期より藤原氏の一族の権益となります。由良の母系は尾張氏なので争いの末ということではなかったようですが。。。上西院が有力なスポンサーとして熱田の社についたということなのかもしれません。

この背景にも仏教優位の当時の朝廷の思惑も絡んでいるのかもしれません。

で、どうしても国教的立場にたった寺院が時代が下るにつれ優勢となっていきます。神社という呼び方は明治期に決められたもので、それまでは「社」または「宮」というのが神社の一般的な呼び名となります。厳島も『宮島』とよびますよね。

上記のように、日本の神々は一旦、仏教の神々の化身として、主に仏神としての側面を中心に祭祀され、神格の変化、追加、さらには先祖がえりが行われていくこととなります。

また、平家関連では2013年に三ッ山大祭を行う播磨国総社(はりまくにそうしゃ)の根本を作ったのが平清盛の跡継ぎの平宗盛であるとされています。播磨国内の大小の明神174社の祭祀を一旦統合させました。これはもともとあった射盾兵主社にその他の明神を集めたということで、祭式の簡略化が目的だったのではないかと思います。

これらは貴族の祭祀としても仏教が優位であったからではないかと私は思っています。

また、鎌倉や室町、江戸と続く武家政権の主催者たちは「ホムタワケノ天皇」と祈らず、「南無八幡大菩薩」と祈るように神と仏が同一視すると同時に、仏教寺院の組織を利用して民間祭祀をコントロールしようとする意識をもつようになります。

武家政権時代には神社は民間、お寺は公儀みたいな住み分けもあったのではないかと思われます。小さな神社では当屋制度という、氏子で神職的な仕事を持ち回りする風習もあります。

仏教が中心の「社」「宮」には別当寺が当てられ、それらの管理を寺院が行うようになります。

神が祭祀の中心的存在の「社」には神宮寺が置かれ、政府との交渉、民間布教などを寺院の社僧が担当するようになります。神宮寺は特別大きな祭祀権を持つ「社」「宮」に付属した寺院の呼び名となります。

また江戸期には、熱田神社鹿島神宮神田神社と呼ばず、熱田大明神、鹿島大明神神田明神とよびます。



鴨長明は加茂の社の社家の家柄に生まれ、若い頃は神職につきますが、後に出家して僧となります。

彼の中ではそれは矛盾したことではなく、同じ事だったのです。

仏教と神道を全く別のモノと認識するのは、日本の歴史において明治以降の日本人だけなのではないかと思ったりするのですが、これもまた極論的であり表現の難しいところです。

仏教導入直後の仏は神として、仏教が広まってからは神が仏と同体のモノとして祭祀され続けてきたのです。

それを強引に引き剥がし、仏教と神道と二つのものとしたのは、明治以降の国家神道の導入です。この考えは、仏教寺院の破壊を招く「廃仏毀釈運動」として民間にも広がります。私は未読なのですが島崎藤村の「夜明け前」という小説にこのあたりの時代の民間人の心の動きが綴られているそうです。

もちろんそこまでの熱狂は明治政府も想像していなかったのかもしれません。

しかし、徳川時代は仏、明治は神というような印象操作もあり、明治国家誕生という時代の裂け目は民間の信仰の形にも大きく影響を与えたことは想像できます。

特に形式、祭式の上では大きく変わってしまったのは事実です。

こういう変化は、農民層に対する寺院の人民支配から脱却、という地方政治的、身分階層的変化も伴うわけです。

我々が知っている現行の神社の神というものは、仏の影響や名を剥ぎ取ったものであり日本人の歴史とともに変化し、成長してきた八百万の神々とも微妙に違うものとなっている可能性が高いですが、明治初期の強烈かつ強引な廃仏毀釈を生き抜いた寺院も沢山あるわけですから、逆から考えるとそれら歴史とともに培ってきた神性というものを包括した上で、改めて祭神の名が呼びかえられただけなのかもしれません。

神をどう解釈するか、と、神社に神性があるってことはまた違うものであります。

ただ、今のご祭神、神格、霊性、ご利益、そしてそのご神名など、つまり祭祀の仕方、信仰の捕らえ方というものは古代からずっと同じであったということではないという事も頭の片すみにおきつつ、古代史や歴史を考えることも必要だと思います。

ただもう一つ、忘れてはいけないことは、古代の祭祀、そして古代から連綿と続く祭祀の場は先人たち、そして現代の私たちにとっても神聖なものであった、そして今も大事な場所である。ということです。

先人たちは何も王族や豪族の祖先だから「神」や「社」や「宮」を敬ったわけではなく、そこに「神性を発見」したからこそ祭祀の場を築き、思想や流行りの信仰などいろんな影響をうけ、さまざまな形、形式に変化させつつも、信仰を、祭祀を続けてきたという事もまた事実なのです。



一枚目の写真は出雲平野に降りそぞぐ、夕刻の太陽の光幕。

二枚目は日本海に沈むお日様。

三枚目は、韓神新羅神社の周辺の日本海海上にある二筋の島を神島と呼ぶそうです。