古代出雲王国の謎

古代出雲王国の謎を中心とした歴史がテーマのブログです。

岐の神

 2003/1/29

出雲大社の本殿東側にある北島国造館内にある
「天神社」。祭神はスクナヒコナである。

五十猛命とオホナモチスクナヒコの全国行脚はそれこそ「領土権の主張」そのものだったのではないかと妄想しています。

その理由として「木の種を播く」と「山・丘に対する命名」の二つがあります。

まず、「木」なんですがこれは「岐」に通じるのではないかと推測しています。大国主のトピックでも話題になった「サエノカミ」「塞ノ神」(トンド祭り?)も「木」「岐」を根本においた祭祀のように思います。

播磨国風土記によれば、明石にその陰が淡路島にまで掛かる大木が立っていてその木の位置が摂津と播磨の国境だったようです。この事から「木の種を播く」という行為は、「国境を定める」という意味があったのではないかと推測しています。明石の大木は淡路、摂津、播磨の「岐」を示しているです。

そして、オホナムチスクナヒコは稲作を広めると同時に山や丘の命名をして全国を巡っています。名をつけるという事は「言霊」の観点から考えると名をつけた対象を支配するという意味があるように感じられます。

二柱の神が名をつけて廻った丘や山そしてそれらこ囲まれた盆地こそが出雲族が領有権を主張した地域とは考えられないでしょうか?

稲作による経済活動を広めるために全国を廻ったのではないかと思っています。と、同時に丘や山に名をつけてまわったのです。

例えば、姫路の語源である「日女道」はスクナヒコが命名したという事になっています。現在姫路城のあるあたりは昔『日女道丘』と呼ばれていたそうです。

「日女」は蚕を指すことから、出雲族は養蚕も行っていたと推測できます。

それとは違い、播磨国風土記では平野にある川や林・杜などの地名説話には出雲族(=国津神?)による地名説話よりも、神功皇后応神天皇を初めとする天孫族(=天津神?)によるものが多く見受けられます。

これらの事がらから、出雲族は盆地や山・丘の領有権を主張し、平野部にはあまり執着してなかったのではないかと想像しています。これは生活に根ざす祭祀の違いから発生しているようにも思われます。

逆に、天孫族は森や林、川などに執着している。これは水利に拘ったからではないでしょうか?何故水利に拘ったかというと、平地における水田耕作が天孫族の生活に不可欠だったからではないかと推測します。

スサノオ稲田姫(稲と田?)を水害(ヤマタノオロチ・蛇神?)から守る事により英雄神となりますが、水害から身や作物を守り、蛇神信仰を克服しそれ以前のアニミズムから1歩前へ進んだ事を表しているように思います。

そしてそれは、スサノオという英雄以外には出来なかったことなのかもしれません。

天孫族の登場を待つまでは・・・・・・・。

オナモチスクナヒコも稲作の伝播に関わっていたように思いますが、それは天孫族が繰り広げた平地の水田開発ではなく、盆地や山地の稲作に適した自然条件の地を見つけそこを出雲族の地として支配を広げていったのではないかと妄想しています。 

 

そして彼らの稲作は平地の水田耕作以上に太陽の恵みというか照射角度により大きな影響を受けたのではないかと思います。だからこそ太陽の運行を計測する必要があり、それが続くことにより、ひとつの祭祀の形となった。それが出雲の太陽祭祀の源であり、他の祭祀よりも太陽祭祀が出雲で優先された理由の一つだと思います。

 

弥生期に、太陽の運行を計り、また交易や外交を通じて大陸文化から「聖=暦」=太陰暦を受け入れていたとすれば、卑弥呼の時代の王権は「皆既日食」などを理由に「王」を殺すなどという原始的政権ではなかったといえるのではないでしょうか? 

 

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