古代出雲王国の謎

古代出雲王国の謎を中心とした歴史がテーマのブログです。

大国主と天海僧正

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大国主天海僧正
2002/5/31

 

比叡山にある山王一実神道の総本社は「日吉大社」、古くは「日枝山王社」という神社で、西本宮、東本宮が一対という形で建っています。ここに祭られている神はオオナムチつまり大国主です。しかし、ここの神は三輪山から勧請されたということですので三輪の大物主が実際の主祭神です。古事記によると、比叡山にはもともとオオヤマクイノカミが祭られておりこの神は東本宮、オオナムチは西本宮にと別れています。ここでもオオナムチ=大物主としての大国主は西という方角、つまり根の国・黄泉の国と結び付けられて考えられていたということが偲ばれます。

日枝山王社と山王一実神道の基本自体は、鎌倉期に既に成立しており、足利将軍や信長を苦しめた比叡山の僧兵が強訴のとき担いだのがこの神社の神輿なのです。

信長の比叡山焼き討ちにより一旦壊滅した日枝山王社を建てなおしたのは豊臣秀吉徳川家康であり、失われたり散逸したりしていた山王一実神道の教義・儀式をあらためて体系的に作り直したのが家康の下で活躍した天海僧正だったのです天海僧正は、日枝山王社だけでなく関東の地で大国主を祭った神社のひとつである神田明神社も復興しています。神田神社といえばお祭りと「平将門首塚」があることで有名です。

神田神社は、大和の國魂・大物主と同様に江戸の総鎮守として、江戸幕府の安泰を祈願する性格をもつ神社です。

大国主を祭る日枝、神田の両神社のお祭は大変賑やかなので有名です。これは両神社への民の信仰心を集めるという天海や神社側の戦略でもあるのではないかと思います。喩え神社の呪術的要素が忘れ去られようと民衆の信仰が厚ければ信仰施設として永続できるわけです。

大国主が怨霊であるとする傍証になるかもしれませんが、ちょっとまってください。

大国主が怨霊であるという観念というか、怨霊神を祀るという平安の頃に流行した祭祀の復活は天海によって用意された罠ではないでしょうか? 


天海は家康に送る神号を巡って金地院崇伝と論争しこれを論破し「東照大権現」という神号を送ります。徳川幕府最高神東照大権現」を自らが纏めた「山王一実神道の儀式」により祭ることを決定させるのです。

天海は大国主という神格を利用したのではないでしょうか?

記紀神道をも内面に取り込んだ天海の山王一実神道は、記紀における「国造りの神・国譲る神」としての大国主の立場を逆手にとって、「天壌無窮の神勅」に並び得る徳川家の天下の呪術的な正当性を大国主を祀ることにより手に入れようとしたのではないかと思います。

記紀神話を逆手にとれば、天照や高天原の諸神の介入によるものとはいえ、大国主は国譲る権限を持った神であり、天皇がこの国の統治者たる事を最終的に決定・認定した神でもあるのです。大国主への祭祀権を手に入れることにより、天皇統治で混乱を極めた国土を徳川家が大国主へと一旦返還して再び徳川家に譲るという呪術を完成させようとしたという考え方はばかばかしいでょうか?

東照大権現」という家康に送られた神号も意味を深読みすれば、「東から(を)照らす大いなる神」という意味になります。つまりは東国の天照大神です。天海はその脳髄の奥深くで天台の秘法、出雲系神道の呪力、その他諸々の呪術をもって徳川家が天皇家にとって代わるための呪術大系を構想し、実行していたのかもしれません。

天皇を守る高天原神にひけをとらない神格を持つ出雲系の神々、または天皇家を政治的・軍事的というより呪術的に恐れさせた新皇平将門の神霊を祭ることによってその呪術を完成させようとしたのかもしれません。

神田神社に祭られている平将門は、明治政府により一度神田の地を追い出されています。明治天皇が江戸の総鎮守たる大神・大国主に参拝するために、天皇家から見れば逆臣である平将門を排除しようとしたのです。もちろん明治天皇の意思であったかどうかは解りません。

神田神社は江戸時代は江戸城を守るため神社でしたが、東京遷都以後は皇居を守る神社となり、明治天皇もお参りせねばならないため逆賊平将門は明治政府の役人により遠ざけられたのです。

神田神社大国主は、徳川幕府にいったんは預けたこの国を再び天皇に預けなおしたのです。

明治天皇は江戸入城の前に氷川神社に参詣し、遷都の許しを乞います。氷川神社の氷川は出雲の斐伊川スサノオ降臨の地ヤマタノオロチの本拠地もこの流域)に因んだもので、そこにはスサノオが祭られています。

ここでも天皇家は出雲系の神へ向けての呪術を行っているのです。 

結局のところ政治機構としての徳川幕府は、水戸藩大日本史からも見えてくる思想により、天皇からこの国の政治を委任されているという形式を選びました。これは日本独自の政治形態であると同時に日本の実質的政治機構にとっては厄介な形態でもある。天皇が別の人間に政治を委任するという形も残されているし、自ら親政を取るという事も考えられるからである。天海はこの事がいずれ徳川幕府の首をしめることになることを見とおしていたのではないでしょうか?

天海も参画した禁中並公家諸法度の発布の最終目的は、天皇家を監視し支配するというよりも、天皇家から完全にこの国の政治、祭祀に関する全ての権利を奪い尽くすことにあったのではないでしょうか?つまり徳川家を天皇家に代わる王家にするということです。

天海の呪法はついに完成しませんでした。徳川家はついに天皇家にとって代わることはできなかったのです。天海が利用した大国主と同じく徳川15代将軍慶喜により再び天皇家への「国譲り」が行われたのでした。 

「権現」の本来の意味は、文字とおり「仏の権能をこの世に現す」という意味ですが、「幽」により「顕」を支配する、指導するという事を強く意識した言葉でもあったのではないでしょうか?

顕幽を合一するという意思が込められているのではないかと思います。家康以前には、熊野の山王権現が有名です。

紀伊熊野にも出雲系のスサノオが祭られています。神武がヤタカラスにであった土地でもあります。家康の都する江戸に氷川神社を勧請し、江戸城の鬼門の神田に大国主を勧請し、権現という号を選んだ天海の呪法は、出雲神を江戸に権現させその呪力によって天孫の神威、逆にいえば徳川家への怨念をはね返すという意識があったのかもしれません。

江戸の地に、平安京に負けない「永遠の都」を山王一実神道の呪力によって呪術的につくり上げるのが天海の大仕事の一つだったのです。

出雲大社の本殿もこの時期に鎌倉時代以来の正殿式に作り直され、祭神もスサノオから大国主へと変更されています。これらの呪術的世界の変革も天海の構想を実行した徳川幕府の主導によって進められています。この江戸初期に出雲大社で行われた祭神変更や神域内での仏教行事の停止は明治時代に全国的に行われる「神仏分離」の雛型でもあるわけです。

こう考えてみると、大国主が怨霊神としての認識をホンの少しでも帯びはじめるのは、この江戸時代初期の比較的新しい呪術変革が原因であるといえるのではないでしょうか?

七福神」は天海によって広められたという説もあるようです。
もちろん、七福神神仏習合の流れの中で出来上がったもので誰が考え出したかということは不明ですが、江戸時代から「宝船に乗った七福神」の絵が広まりだしたので、最初にこの絵を広めようと考えたのが天海ではないか?ということらしいです。

七福神と北斗七星は連動した呪力の象徴ではないでしょうか?

天皇は北斗七星を祭ります。天皇の名の元になったといわれる「天皇大帝」自体が北斗七星を意識した道教神です。

天皇の祭祀は天皇以外の何者が代わって行うことは許されません。とくに天に祈りをささげるのは天皇の特権なのです。逆からかんがえれば北斗を公然と祭祀すること、北斗七星への祭祀権をもてるのは、「天下人」だけということになります。

日光東照宮には、北斗七星を祭るための神社という意味合いもあるらしいです。
家康をひいては徳川家を、武力(顕)だけでなく祭祀(幽)の上でも天下人たらしめようとする意味が隠されているのではないでしょうか?

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ここでは、巷間に広まる怨霊史観の第一人者梅原猛先生の論に対して、一般読者の目には触れにくい古代史の専門家坂本太郎先生の反論を紹介させていただきます。

「日本古代史叢考」 坂本太郎著 吉川弘文館

二 法隆寺出雲大社の対比、及び偶数性四と死との連想からの抜粋

*注・文中の(・・・・・)は省略です。


梅原氏の法隆寺怨霊寺説には重要な前提がある。 
それはたたり神についての氏一流の理解に始まる。
氏によると、個人で神々に祭られるのは、

(1)一般に政治的敗者が多い。

(2)その時彼等は罪なくして殺されたものである。

(3)その罪なくして殺された人が、病気とか天災・飢饉によって、時の支配者を苦しめる。

(4)時の権力者は、そのたたりを鎮め、自己の政権を安泰にするために、そのたたりの霊を手厚く祭る。

(5)それと共に、そういうたたりの神の徳をほめたたえ、良き名をその霊に追遣するのである。


神話に伝えられる大国主神平安時代菅原道真などには、こうした筋書きはピッタリであろう。しかし、これが一般的に日本の神のあり方だとは言えない。(一部略) このように、法隆寺出雲大社との類似を説くのは、もともと無理であるが、梅原氏は別に偶数性の原理、四と死との連想から法隆寺に死の影のまつわるこ とを力説する。偶数が奇数に比して不吉であると果たして言えるのであろうか ?

日本では偶数の方を貴ぶ。神話の伝説でも、 八百万神といい、大八州国といい、・・・・・。 四と死を連想することは、後世になってはいざ知らず、少なくとも飛鳥・奈良 の時代にはなかったことであると思う。

中国古代においても、四神、四宝、四善、四器、四聖など、大体佳事と 考えてよいものに四を用いた例が多い。書籍を分類して四部とし、それを蔵す る所を四庫といい、『礼記』を抜粋して四書を選び、大学につぐ学校として四 門学をおく。四を忌避した様子は全くない。

日本でも崇神紀の四道将軍、仲哀 紀の四大夫、応神紀の工女四婦女、天智紀の四嬪・四宮人などは『日本書紀』 で自由に四の字を用いている例である。

遣唐使が四船で組織されたことなどは、 死の恐怖にもっとも敏感な人の間でも四の数が決して忌まれていなかったよい 証拠になろう。

万葉集』でも字音仮名として、四の文字を使っている例が多い。

*・・・「大和にしては」原文「倭尓四手者」とある。

*・・・「朝夕にして」・・原文は「朝夕四天」とある。

*・・・「君無しにして」・・原文は「君無二四天」である。

*・・・「家にして」・・原文は「家二四天」である。

*・・・「侘びそしにける」・・原文は「和備曾四二結類」である。

・・・「気の緒にして」・・原文は「気緒尓四而」とある。

万葉集』の歌人たちには、四は死と連なるような不吉な文字だという思想は いささかもなかったことがこれらの例でわかる

梅原氏はまた四と死との連想を強調しようとして、出雲大社では柏手を四 つ打つ。カシワ手を四つの神社は他にはないという。しかし、このことは出雲 大社が大国主神の死霊を祭ったという証には少しもならない

神に対し四拝ま たは四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲大社に限ったこと ではない。今日出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは旧儀を忠実に伝えて いるだけのことである。 四拍手が古礼であることは、『儀式』巻三践祚大嘗祭儀に、・・・・跪いて手 を拍つこと四度とあり、・・・・・『日本後記』延暦十八年・・の文もある。 これによって正月朝賀の拝は通例四拝であったことがわかる。渤海使の参列を 慮って四拝を再拝にかえたというからである

これについて、平安時代 藤原公任の著した『北山抄』の説明は丁寧である。『本朝之風、四度拝神、謂之両段再拝』・・・これらの文献によって、四拝が 決して珍しいことではなく、古来から伝えられた慣習であること、従って死の観念などの介入する余地の全くないことは、明らかであると思う。

                昭和四十八年法隆寺夏季大学講演より 
この項はKANAKさんよりご教示いただいたものを掲載させていただきました。

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大国主の神座は本殿正面向きでなく西向きなのか? 2002/5/31

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本殿脇にある神座の図本殿西側の大国主神の正面の位置を指す札

大国主怨霊説の四柏手以外の根拠に神座が参拝者へ向かって正面を向かず横を向いている(つまり西向きである)」というのがあります。出雲大社本殿に祭られている大国主命は参拝者側から見ると横を向いた格好になり、参拝者の正面には「客座五神」が正面(参拝者の方)を向いて鎮座しているのです。

ただし大国主のいるさらに奥の方に五神の神座は正面を向きならんでいます。
大国主の正面奥側に大国主に向かって横(つまり参拝者側・南)を向いて並んでいるのです。
向かって左から

天之御中主神

高御産巣立日神

神産巣立日神

宇麻志阿斯訶備比古遅神

天之常立神

の五神です。

この神座の配置から「客座五神」こそが参拝をうける対象であると考え、大国主は、いわば「囚われの神」であるとして、怨霊説に広げていくのですが、これもどうかと思います。

客座五神とは何なのか?と考えるとこれは面白いことに古事記において神々の一番最初に登場する「別天神」と同一なのが判ります。「別天神」とは何もないところから現れ出でる神で、森羅万象全ての元でもあるのです。

大国主や素戔嗚、天照、月読などの人格神ではなく「世界と人間、神の根本」を象徴している神のことです。これらの神名は古事記では天孫の祖先神としてえがかれる一方(タカミムスビ)、出雲の祖先神(カミムスビ)としても現われています。

他の三柱の神は天神地祇とそれを結ぶ柱を表しているとも考えられています。

これらの五神の神名は世界の要素を象徴する神名であり、出雲族天孫族の祖神というよりむしろ、古代人の世界観を表すものではないかと思われます。ということは出雲・天孫のどちらもが崇めていた「自然神」であるのではないでしょうか?五神は出雲大社伊勢神宮といった神社建築物の大柱にも見たてられているのかもしれません。

ちなみに、本居宣長の玉勝間に収録されている金輪造営図には田の字型に配置された9本の大柱が記されている。また弥生遺跡である田和山遺跡にも9本の柱跡があることから見て、9本柱による巨大建築物(神殿?)はかなりの昔からの建築様式だったことが伺われる。

そして、神統譜上の系譜をおいて考えれば、これらの神の神格(性)は、決して天孫族とその被支配民だけが崇めるものでなく、日本列島に住む人々にとって普遍的な自然信仰(精霊信仰)の対象でもあるのです。

つまり、「天孫族がまつる五神」によって大国主の怨霊を封じているとはいいきれないということです。むしろ見方を変えれば大国主の正面に居並ぶ五神は大国主によって祭祀されている支配されているという形にもとれるのです。

さらに、大国主が横を向いているのと同じで参拝者に対して横を向いた形の神座をもち、しかも出雲國造が直接祭祀する神社は他にもあります。

もちろん出雲の地には他にも大社づくりの神社が数多くありますし出雲國造の家系や流れに連なる神官が祭祀する神社も多くあります。出雲大社だけを抜き出しその特異性を持ち出すのは片手落ちですし、これらの神社の特性、さらには出雲文化の特性をも考慮にいれ考察を重ねなければならない。

ここで注目したいのは同じく出雲にある「神魂神社」です。松江市内ですから宍道湖の東西に参拝者に対して横向きで鎮座している神が居るわけです。ただしこちらの祭神イザナギ出雲大社とは逆で東向きだそうです。

この二つの社は、対で何かの呪術的意味を持つのではないでしょうか?
この呪術的意味こそ、太陽祭祀、ひいては「死生の祭祀」ではないでしょうか?

天皇家つまり大和朝廷の勢力が強まる前の本来の倭国にあった精霊信仰のなかで、交易と共に広まった稲作文化の象徴として一気に倭国の祭祀の頂点にたった「太陽祭祀」に関するものだと睨んでいます。

東(神魂)から西(杵築)のレイライン(古代祭祀線)が古代出雲にあったという事に他ならないのではないでしょうか?

ここからも、倭国における太陽祭祀(政治的意味のある)の出発点は古代出雲もしくは同様の文化をもっていたとも考えられるヤマト政権以前の古代の大和盆地の民の普遍的な信仰ではなかったかと考えています。

何故大国主が西をむいているかについては諸説ありますが、五神によって封じられているという要素は少ないと思います。もし封じられているとすれば客座五神は大国主に対して尻を向けた形でないといけないと思います。つまり大国主の神座よりも参拝者から見て手前に客座五神の神座がおかれてなくてはおかしいのではないでしょうか?

そもそも、大国主の祀られている出雲大社は大社造りであって、天孫の鎮座する神社とは、根本的に建築思想もその伝統も違うものであります。大社造は、アマテラスの神明造やその他の神社建築とは根本的に違うわけです。

また、記紀神話において怨霊とはとても考えられない鹿島神宮の神座の配置も大社造の神座に似ている(きんたろうさんのページ参照)ことからも、神座の向きから大国主が怨霊であると理解するまたは主張するのはとても不可能な事だと思います。大社造にしても、鹿島神宮にしても古くから伝えられてきた建築様式を維持しつづけてきたと考えるべきではないかと思います。

さらに言えば、大国主がアマテラスと同じ神明造の神社に祀られその状態で横向き(西向)で、客座五神の後ろに鎮座しているのだとしたらこの怨霊説の推論は成り立つかもしれませんが、そうでない以上、あり得ない推論として考えるべきではないかと思います。

みなさんは、どうお考えでしょうか?

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出雲四柏手

出雲大社参拝の時には、四柏手を打ちます。この「四」が「死」に通じるとして、出雲大社大国主という怨霊を封じ込める為の神社」であるという説があります。これは本当でしょうか?まず、「四」の読み方としては古代は「し」ではなく「よ」または「よん」です古代においての読み方の上からは「死」はありえないという事です。そもそも「よん」「よ」は古代日本において聖なる数なのです。人や神の魂には四つの種類があると考えられていました。「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」です。この四つの魂それぞれに柏手を打つのが四柏手の原型だと思います。出雲以外でも、宇佐八幡宮・・弥彦神社などでも現在も行われている事、また神道国家神道で最高位ともいうべきの伊勢神宮は八開手(八拍?)で、これらを『長手』と言っている事から推定すれば、四柏手以上の柏手を打つ事こそが古代からの正式な神に対する儀礼なのではないでしょうか?

では何故一般的には四柏手でなく二回の柏手なのか?という疑問があります。古代確かに四回だった柏手が二回になったのは江戸期の国学それに準ずる神学の理論によるものではないかと推測しています。それは、古代確かに四つであると考えられていた人や神の「魂」は「魂」「魄」二つであると理解しなおされたからではないでしょうか?

古代神道における「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」の四つの概念を、江戸神学は「魂・魄」二つの概念に改めたのではないかというのが私の個人的推測です。

こういった霊に対する概念の変化も手伝って本来四回打つはずの柏手は二回に簡略化されることになったのかもしれません。

そして、明治初年、国学によって理論づけされた明治政府は「神社祭式」を発布します。「神社祭式」はそれぞれ独立した教義やご利益、縁起由緒をもっていた神社神道国家神道へと変換するのが目的でした。

伊勢神宮を頂点とする国家神道」の概念を、そしてそれに準じた祭式を新たに作り上げたのです。この「神社祭式」によって伊勢神宮以外の神社での参拝の作法として「二柏手」が正式なものとして定められたのです。

拝殿 本殿西側から 本殿東から

また注連縄の向きなどもここに至ってはじめて正式なるものが意識されたのではないでしょうか?それまでは、それぞれの神社によって様々な結び方で締められていたのではないかと思います。ちなみに、出雲大社の注連縄の結び方は『左本右末』といい、全国の神社のほぼ一割がこの形式を踏襲している。

また、注連縄の原型は蛇の交尾の形でもある。これは吉野裕子氏の「蛇」(講談社学術文庫)に上げられていた説だが、蛇の交尾の写真をみるとまさしく注連縄そのものである。機会があればぜひごらんになっていただきたい。

吉野氏の著作の紹介はペギラさんのページに詳しい(参照、ここをくりっく!)

出雲大社型の左本右末型注連縄を持つ代表的な神社としては、愛知県津島市津島神社(祭神は牛頭天王つまりスサノオ)、同じくスサノオ(クシミケヌ)を祀る熊野大社、大物主を祀る三輪山大神神社、愛媛の大三島町にある大山祇神社などが挙げられる。確かに、珍しい結び方ではあるが、大国主怨霊説を振りかざす人々のいうように、決して出雲大社だけのものではないということに注意していただきたい。
「注連縄の豆知識」はこちらをクリック!参照

また、注連縄が蛇の交尾を神格化したものであれば、左右の上位意識が成立する前に右本左末の形式をしていて(つまりは、もともと左右のどちらが上位であるかとか、正式な注連縄の在り方なんてものできる前から、あの形であったということ。)、出雲大社は、その古祇を踏襲したに過ぎないとも考えられますし、その可能性が高いのではないでしょうか?

何しろ「出雲大社(杵築大社・きつきのおおやしろ)」は、日本最古の神殿形式の神社であるのだから・・・・・・。

四柏手と二柏手との違いは「怨霊を封じるための神社」と「その他の神社」の違いではなく国家神道絶対主義とそれと相容れなかった古式神神道主義の違いの現れだと推測しています。

現在も四柏手などの古式の柏手を続けている出雲大社伊勢神宮宇佐神宮弥彦神社などの古社は単なる神社ではなく、それぞれ確固とした独自の信仰を明治維新までにつくりあげました。「縁結び」「出雲講」などなどそれぞれの神社が社地以外でも布教活動を行い、遠隔地にも熱心な信者を集めていた事が古式作法の保存に大きな力となったのだと思います。

また、四が聖なる数だということをしのばせる例としては、遣唐使・遣隋使の船も四艘一組なのです。危険な旅にわざわざ不吉な数字を用いるでしょうか?むしろ四という数字が縁起のよい数字だと考えられていたからこそ「縁起担ぎ」のため四艘で船出したのではないでしょうか?

そして、柏手なんですがこれは相当昔から行われていた儀礼の一つです。魏志倭人伝において「大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ」と記されているように「手を摶ち」ということは「柏手をうつ」ということで貴人に対する挨拶の作法でもあるのです。卑弥呼の時代には尊敬の念を表す挨拶として柏手が儀礼・作法として存在していたのです。

果たして貴人に対する尊敬を表す作法と鎮魂しかも怨霊を封じ込める技として使われるのものでしょうか?

私はないと思います。

それと、蛇足になるかもしれませんが、金光教天理教といった幕末に発生した教派神道」の神前参拝のときの柏手も「四柏手」であり、同じく教派神道に転身した出雲大社の柏手と同じ「四」であるということからも「四柏手」には「死柏手」以外の意味が込められているとしか思えません。

また、出雲大社関連年表を見ていただければ一目瞭然ですが、出雲大社主祭神は怨霊信仰が流行した平安期から江戸期においては、大国主ではなくスサノヲです。この時点で公家や天皇家大国主を怨霊として認識していなかったという事は明白ではないでしょうか?

怨霊が神となった場合は別で柏手をうつとは思いますが、それは神に対しての柏手であり怨霊に対してではないのです。つまり柏手を打つ数によって怨霊かどうかを論じるというのは成り立たない推論でしかないのです。この「四柏手」を根拠にして成り立つ大国主=怨霊説は、私個人としては非常に疑わしく信用できない説です。

みなさんは、どうお考えでしょうか?