古代出雲王国の謎

古代出雲王国の謎を中心とした歴史がテーマのブログです。

四と死

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ここでは、巷間に広まる怨霊史観の第一人者梅原猛先生の論に対して、一般読者の目には触れにくい古代史の専門家坂本太郎先生の反論を紹介させていただきます。

「日本古代史叢考」 坂本太郎著 吉川弘文館

二 法隆寺出雲大社の対比、及び偶数性四と死との連想からの抜粋

*注・文中の(・・・・・)は省略です。


梅原氏の法隆寺怨霊寺説には重要な前提がある。 
それはたたり神についての氏一流の理解に始まる。
氏によると、個人で神々に祭られるのは、

(1)一般に政治的敗者が多い。

(2)その時彼等は罪なくして殺されたものである。

(3)その罪なくして殺された人が、病気とか天災・飢饉によって、時の支配者を苦しめる。

(4)時の権力者は、そのたたりを鎮め、自己の政権を安泰にするために、そのたたりの霊を手厚く祭る。

(5)それと共に、そういうたたりの神の徳をほめたたえ、良き名をその霊に追遣するのである。


神話に伝えられる大国主神平安時代菅原道真などには、こうした筋書きはピッタリであろう。しかし、これが一般的に日本の神のあり方だとは言えない。(一部略) このように、法隆寺出雲大社との類似を説くのは、もともと無理であるが、梅原氏は別に偶数性の原理、四と死との連想から法隆寺に死の影のまつわるこ とを力説する。偶数が奇数に比して不吉であると果たして言えるのであろうか ?

日本では偶数の方を貴ぶ。神話の伝説でも、 八百万神といい、大八州国といい、・・・・・。 四と死を連想することは、後世になってはいざ知らず、少なくとも飛鳥・奈良 の時代にはなかったことであると思う。

中国古代においても、四神、四宝、四善、四器、四聖など、大体佳事と 考えてよいものに四を用いた例が多い。書籍を分類して四部とし、それを蔵す る所を四庫といい、『礼記』を抜粋して四書を選び、大学につぐ学校として四 門学をおく。四を忌避した様子は全くない。

日本でも崇神紀の四道将軍、仲哀 紀の四大夫、応神紀の工女四婦女、天智紀の四嬪・四宮人などは『日本書紀』 で自由に四の字を用いている例である。

遣唐使が四船で組織されたことなどは、 死の恐怖にもっとも敏感な人の間でも四の数が決して忌まれていなかったよい 証拠になろう。

万葉集』でも字音仮名として、四の文字を使っている例が多い。

*・・・「大和にしては」原文「倭尓四手者」とある。

*・・・「朝夕にして」・・原文は「朝夕四天」とある。

*・・・「君無しにして」・・原文は「君無二四天」である。

*・・・「家にして」・・原文は「家二四天」である。

*・・・「侘びそしにける」・・原文は「和備曾四二結類」である。

・・・「気の緒にして」・・原文は「気緒尓四而」とある。

万葉集』の歌人たちには、四は死と連なるような不吉な文字だという思想は いささかもなかったことがこれらの例でわかる

梅原氏はまた四と死との連想を強調しようとして、出雲大社では柏手を四 つ打つ。カシワ手を四つの神社は他にはないという。しかし、このことは出雲 大社が大国主神の死霊を祭ったという証には少しもならない

神に対し四拝ま たは四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲大社に限ったこと ではない。今日出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは旧儀を忠実に伝えて いるだけのことである。 四拍手が古礼であることは、『儀式』巻三践祚大嘗祭儀に、・・・・跪いて手 を拍つこと四度とあり、・・・・・『日本後記』延暦十八年・・の文もある。 これによって正月朝賀の拝は通例四拝であったことがわかる。渤海使の参列を 慮って四拝を再拝にかえたというからである

これについて、平安時代 藤原公任の著した『北山抄』の説明は丁寧である。『本朝之風、四度拝神、謂之両段再拝』・・・これらの文献によって、四拝が 決して珍しいことではなく、古来から伝えられた慣習であること、従って死の観念などの介入する余地の全くないことは、明らかであると思う。

                昭和四十八年法隆寺夏季大学講演より 
この項はKANAKさんよりご教示いただいたものを掲載させていただきました。

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