古代出雲王国の謎

古代出雲王国の謎を中心とした歴史がテーマのブログです。

13年前の加茂岩倉遺跡、銅鐸

出雲加茂岩倉遺跡 2006/08/20
酷い残暑の続く8月の20日に出雲・加茂岩倉遺跡を訪れた。

駐車場には弥生の森と、荒神谷と同じ紹介看板 あれ?工事中????
山上に向かう山道の看板げっ300mも登るの? 山道に入る、車は通行禁止だけど緩やか
全身汗びっしょりでもまだ200メートルも。。。 かなり息が弾んできた。残り100メートル
まさに山の中を歩く、施設に電力を送る電柱あり 登り道あたり、荒神が覗いていそうな木々
やっと到着遺跡の入り口にある看板 西谷古墳群にあるような階段がついてる。
   
念願だった加茂岩倉遺跡行ってきた。

ここは、山陰のメイン街道国道9号から少し山の中に向かって走ったところにある加茂町(現在は雲南市加茂町)という場所にある。9号線沿いに看板が発見できなかったこともあって、今回は道路地図とにらめっこしながら、宍道のあたりから54号線へと進入。

54号を南つまり山に向かってしばらく走っていると「加茂岩倉遺跡」の看板があり「遊学の町」
という加茂町のキャッチフレーズの看板も立っている。9号からは解りにくいが54号に入りさえ
すれば一目瞭然にわかりやすい。

それでも車も人気も少ない道なので少々不安でもある。
54号沿いの大きな看板を矢印の方に曲がる。
山陰道三刀屋線の高架の下をくぐるとすぐに遺跡の見学者用駐車場がある。
1台も車はいない。駐車場からは600メートルくらい離れているので、見学者は山道の入り口脇にある工事車両置き場に車を停めて登っているようだ。

気温は35度を越え歩くには気温が高すぎるので、私も山道脇に車を移動させそこから登る事にした。といってもまさか山道がむき出し状態であるとは思ってなかったので入り口にたってしばし呆然とする。せっかく来たんだし登ろうか、それとも気温が高すぎるのでやめようか迷った挙句、疲れたらやめようと決定。そこで遺跡から降りてくる一人の人とすれ違う。

「こんにちは」とだけ声を掛け合う(^^ゞ

「はあはあ」と息をしていてかなりしんどそうだ。ちょっとした観光気分や興味のない人はこんな
ところを見ようと思わないのかもしれない。何しろまだ工事中だし(^^ゞ

とすると、たった一人で見に来ていた入り口ですれ違った人も古代史ファンだったのかな。話かければよかった。

入り口から数十メートルの地点に、加茂岩倉遺跡→300mの看板。大した斜度ではないが結構きつい。200メートル、100メートルの看板をすぎながら、

「300mってこんなに距離あったけ。グリコを買ってくるんだった」

などと馬鹿なことを考えつつ歩く。周りは山である。一部花を植えて公園らしさを演出しようとはしているがほとんど野生のような雰囲気である。

やっと遺跡の入り口、西谷古墳群や荒神谷の公園のように木造の桟橋が設置してあり、山の斜面にある出土場所までは楽に歩いていけそうだ。

が、汗だくになり疲れたのでこの奥にあるという「加茂岩倉ガイダンス」という施設に入って休憩して息を整えてから出土場所を見学しようとまず施設に向かうことにした。ちなみに観光客は入り口ですれ違った人以外は一人もいなくて、遺跡到着現在の午後4時40分現在、私一人だけのようだった。

下記は加茂岩倉遺跡の説明看板。


加茂岩倉ガイダンスと、加茂岩倉遺跡に突入

ここから出土した一覧写真 展示してある銅鐸
展示してある銅鐸 展示してある銅鐸
出土した直後の状態の写真の掲示 発見時の様子写真が貼られている掲示
同じく掲示板の一部 ガイダンスの施設内から遺跡方向を撮影
荒神谷と加茂岩倉を結ぶ稜線 遺跡内の発見時の様子のレプリカ
こちらは別の穴から出てきた分 人工的に掘られた形跡の跡
右上の穴の側面、工事中にあふれ出した感じ 遺跡の上からガイダンスの施設を撮影
遺跡への階段途中にある休憩コーナー 工事中の雰囲気が残る風景
帰り際に遺跡の入り口から一枚 雲が凄い勢いで流れ出る。まさに「出雲」
荒神谷遺跡と同じく、出土時点での状態のレプリカを遺跡においてくれているので、どういう状態で埋まっていたか解りやすくなっている。ここはまだ遺跡公園として完成していなくて、小さな案内施設『加茂岩倉遺跡ガイダンス』が山を切り割った人口の谷の間にあるだけである。

途中のうっそうとした木々は人間が入ってくるのを拒んでいるかのようかの雰囲気がある。
何しろ「アメノシタツクラシシオオカミの埋めた寶」が埋まっている場所だ。きっと荒神の魂が今もそのまま残っているんじゃないかと私に感じさせた。

加茂岩倉遺跡はもともと単なる山であった。

遺跡の北側(日本海側)にある岩倉の集落と南側(中国山地側)にある大竹の集落を結ぶ山越えの
道路の建設中に発見された遺跡なのだ。

岩倉の地名は、その山の上に文字通り「イワクラ」=磐座があるために名づけられた地名だそうだ。

ということは、中国山地から登る朝日を岩倉地区の方向から眺めていた集団がいたということになるんだろうか?まぁ何にせよこの遺跡は山を真っ二つに割った地点にある。銅鐸が出たおかげで道路建設は別コースへと移された。

ガイダンスの施設の写真を見ればわかるように、道路(農道)にするために削られたまさにその場所
の上に施設が橋を架けたように建てられているのがわかるだろう。施設の下の道を私が登ってきた
遺跡の入り口の反対側をくだると、大竹という集落にでるらしいのだ。

施設にはボランティアの人が一人いらっしゃって、もう閉館時間だというのに私だけのために発見
からのドキュメント映画を放映してくれました。

ここでは、予約相談しておくと現地のガイドと一緒に見学もできるらしい。私が出会ったボランティアの方も勉強熱心な方でいろいろと遺跡について説明してくれました。今でも各地の大学から教授先生が見学・講演に訪れるらしく、それらの講演の中でボランティアの方が心に残った話というのも教えていただいた。

やはりこの遺跡の解釈は様々で、神話の内容から解釈するにしても、国引き神話からモチーフをもってきて説明しようとする説から、巷間よく言われる原大和勢力の出雲征服戦争の後に服属儀式として埋納されたという説など、かなり沢山の解釈があるらしい。

一番重要視されているのが、「×」印。これは荒神谷遺跡の銅剣にも刻まれていて両遺跡は必ず同一勢力の手によるものだという。

ガイダンスの室内はさほど広くはなくはないが休憩所もかねている。そこに銅鐸のレプリカが数体と神原神社古墳から出土した「三角縁神獣鏡」の等身大写真が飾られています。